戦は人格なり、部下統率の極意は無欲にあり
連合艦隊最後の司令長官 小沢治三郎
●小沢治三郎は日本海軍の最後の連合艦隊司令長官で、米内海軍大臣が海軍大将への昇進を内定したのに「敗軍の将がなんで大将になどなれますか」と固辞、中将のままに終戦となった司令長官である。
●「戦いには統率者の人格がもろに出てくる。したがって部下統率の極意は、将たるものの無欲さだ」と、彼は言い遺している。
●自ら栄進出世を求めなかった数少ない海軍将官といえるだろう。もっとも彼の海軍兵学校三十七期卒業席次は百九十九人中で四十五番だから、平時の海軍であれば連合艦隊司令長官(海軍第一線トップのポスト) まで昇進することは無理だったかもわからない。
●しかし、満州事変以来続いた戦時の海軍では彼のもつ統率者としての人格、戦術家としての度量、力価に頼らねばならなったわけだ。
●敵対したアメリカ海軍のなかに「アドミラル小沢」の評価は非常に高い。有名な『モリソン戦史』のなかでも、こう書かれている。
●「小沢は抜群の戦術家で、その劣勢な味方戦力をアウトレンジ戦法で米軍の反撃できない距離におきながら見事な攻撃をしてみせた。彼はすべてに有能な提督であった。惜しむらくは彼の航空搭乗員たちが経験不足であったことだ‥‥」
●彼が指揮した海戦のなかで有名なのはマリアナ沖海戦とフィリピン沖海戦での囮作戦だが、この囮作戦では、自分の艦隊を全滅覚悟の犠牲的な囮にしてハルゼー艦隊を北の海域にひきつけ、その間に栗田艦隊のレイテ突入を助けている。栗田艦隊が湾内に突入していたら、その後の太平洋の戦局は大きく変わったかもしれないといわれる大作戦であった。
●小沢はまた部下思いの司令官でもあった。マリアナ沖海戦では帰投の遅れた飛行機のために、夜になると空母にサーチライトをつけて待った。敵から発見される危険のなかで、
「母艦を探している者達の心を考えたら、灯をつけてやるのが当然だよ」
と、豪胆な武将でもあった。