ここを一緒に歩きたい、という気持ち。
少し前のこと。
3月で会社を辞め、地元に帰ってしまった友達。
最後の日、バスの中から見つけたと桜の写真が送られてきた。
「桜が綺麗だったよ!」ではなく、「ここも一緒に歩けたら楽しかっただろうなって思った」という文章が一緒に送られてきて、不意に泣きそうになった。
ここを誰かと一緒に歩きたいという気持ちは、改めて考えると何だか不思議だなと思う。
見たい、会いたい、話したい、が目的ならわかるが、ここを一緒に歩きたいというのは目的としてどうもふわっとしている気がする。
それでも一緒に歩いてみると、新しい発見やその時に出てくる感情や言葉が確かにある。
それは、今いくら部屋の中で一緒にそこを歩くことを想像しても出会えないものだ。
きっと、その時一緒にいる人と、その場所にある何かと、私の中にあった何かが触れて、その場で生まれるものがあるのだと思う。
その時の自分の状態や、一緒にいる相手に対するその時の気持ち、その時の天気、その時周りにいる人たち、そういったたくさんのものから影響を受けて私たちは日々を生きている。
もしその日私が仕事で嫌なことがあった日だったら。
もしその時相手に対して嫉妬を感じてしまっていたら。
もしその日の天気が土砂降りだったら。
もしその時周りにいる人たちが大声で喧嘩をしていたら。
それによってその時の私の心の中の状態はまったく違うものになっているだろう。
おそらく、仕事が順調で、相手に対して優しい気持ちでいられて、雲ひとつない晴天で、周りの人たちが和やかに過ごしていた場合とは、感じることも大きく変わるのだろうなと思う。
会いたいと思ったり、話したいことがあるのならば、わざわざ出かけて行かなくたって、家でも近所でもどこでも会えるし話せる。けれど、その場所に行かなければ出会えない感情は確かにある。
1人で見たって桜は変わらず綺麗なはずなのに、ここの空気を一緒に共有したい、ここを一緒に歩きながら話したいと思ってそれを伝えてきてくれたことがどうしようもなく嬉しかった。
誰とどこに行って何をしたい何を見たい、と目的が明確になっていることも楽しみだが、その先にはっきりとした大きな目的はないけれどとにかくそこで一緒に時間を過ごしたいと思ってくれる人がいて、自分も同じように思えるというのは幸せなことだと思った。