2日で8人を殺害した日本史上最悪のクマ事件を淡々と凄惨に描いた快作『野性伝説 羆風/飴色角と三本指』
最も人間を殺した動物は何か
「最も人間を殺している動物は何か」という問いの答えは「蚊」だそうです。殺しているといっても、蚊のスペックが直接的に危害を加えているわけではなく、マラリアなどの伝染病を媒介するからです。
では、この問いに「1個体で」という条件を付け加えたらどうなるでしょう。調べてみると、ケニアで数十人を食い殺したと言われるライオン、インドとネパールを股にかけて400人以上の被害を出したトラなど、恐るべきリストが見つかります。
実はその中に、日本のある事件も挙げられているケースが多く見られます。それは「三毛別羆事件(さんけべつひぐまじけん)」と呼ばれる、大正時代におきた事件です。合計の被害者数こそ上記と比較すれば少ないですが、短期間で多くの犠牲者を出し、日本史上最悪の熊事件と言われています。
そんな凄まじい事件の一部始終を描いたのが、『野性伝説 羆風/飴色角と三本指』です。
淡々と凄惨に描かれる、悲劇と攻防
事件の舞台は、北海道の三毛別六線沢(当時の地名)。北海道の日本海側の内陸に位置する地域です。
当時(1915年)は開拓の途中で、人の住む場所と自然の境界が曖昧でした。そんな集落に11月下旬、山の不作で腹をすかせた熊が現れたのが事件の始まりです。
最初は民家に吊るした保存食を食べられてしまう程度の被害でしたが、実はその熊は、別の場所では人を襲って食べていました。つまり、人肉の味と人間の警戒すべきポイントを学習している熊だったのです。
初の人的被害が起きたのは12月9日。仕事で男性が家を空けていた間に、妻と息子が襲われ、息子は即死、妻の遺体が持ち去られました。
そして次の日には前日の被害を警戒して2家族が避難していた民家が襲われ、多くの犠牲者を出しました。中には妊婦も含まれており、その胎児や、後遺症で亡くなった方も含めると2日間で8人もの命が奪われました。
『野性伝説 羆風/飴色角と三本指』(戸川幸夫・矢口高雄 / 山と渓谷社)より引用
8月にも上高地のキャンプ場で女性が襲われる事件があり、事件が起きれば大きく報道されるクマですが、死亡事件は実はほとんど起きていません。
環境省の資料によれば、ここ10年の日本では多くても年に5人の被害で、0人という年も珍しくないようです。それだけに、1匹の熊によってこれだけの命が奪われるという事件の凄まじさがうかがえます。
その後、人間側はあらゆる手を尽くして仇を打とうとします。自分の"食糧"に執着する熊の習性を利用し、遺体を囮におびき寄せて殺そうとするなど、手段を選ばない攻防が繰り広げられます。気を抜くと漫画だけでの描写なのでは?と思ってしまうほどの凄惨さですが、事実に基づいたストーリーです。
『野性伝説 羆風/飴色角と三本指』(戸川幸夫・矢口高雄 / 山と渓谷社)より引用
大自然のルールは容赦なく公平
本作には主人公と呼ぶべき登場人物はいません。時には村人、時には熊の視点で物語は進行していきます。
その際にモノローグで頻繁に登場するのが「大自然のルール」というキーワードです。『野性伝説 羆風/飴色角と三本指』では事件が起こった大本の理由を、人間がそのルールを破ったからだとしています。
まだ人的被害が出る前、マタギたちが初めて熊と遭遇した時、彼らは銃を命中させたものの、猛吹雪に遭遇して追跡を断念します。
『野性伝説 羆風/飴色角と三本指』(戸川幸夫・矢口高雄 / 山と渓谷社)より引用
しかしそれはルールを破る行いでした。吹雪だろうが、命をかけて相対したなら、相手を徹底的に追い詰めて、殺す。それが大自然のルールなのです。それを怠った時に、何が起こるのか。そのペナルティは、手負いの熊による復讐でした。
人間の視点から見れば理不尽そのもの。しかし熊の視点、そして大自然のルールではそれが当たり前。とはいえ、最後には熊もまた、ルールの報いを受けることになります。
本作は凄惨な事件をテーマにしながらも、善悪は描かれていません。登場人物たちの感情、セリフは創作されているものの、あくまで「三毛別羆事件」の一連の出来事を淡々と追っていきます。それだけに、こうした事件を2度と起こさないために、われわれがどう振舞えばいいのかを示唆してくれるのです。
それが『野性伝説 羆風/飴色角と三本指』です。もうすぐ登山やハイキングが楽しみな季節ですが、その前に襟を正して読んでおきたい漫画だと思います。
参考:三毛別羆事件 -Wikipedia