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#62 不感症な胸

「本当に、本っ当にそう思った?」

「さとゆみさん」こと、佐藤友美さんの言葉だ。

この言葉を9月のエッセイ講座で聞いた瞬間、私はさとゆみさんと目が合わないよう、配られた課題を読むフリをして目を伏せた。
何を隠そう……いや、もうさとゆみさんにバレているので隠せていないのだけれど、私は自分の感情を盛って書く癖があるようだ。しかもさとゆみさんから追求されるその時までは、意図していなかった。ナチュラルに、当たり前に盛っていた。

事の始まりは小学生の時からだと思う。
『とても感動して、なみだがこぼれそうになりました』
小学校1年生のときに作文をこんなふうに書いていたら、だいたい先生や親に褒められていた。
エピソードは盛っていない。しかし自分の気持ちは本物よりも3~4割増しに書く。すると周りに褒められる。

他にも『盛り癖』の原因を考えてみると「感受性の強い私って素敵でしょ」のアピールだと分かった。言葉にしてみると月並みすぎて恥ずかしい。私は今、私小説ではなくエッセイを書くために、大阪のエッセイ講座に通っているのだ。本当に思ったことを書ける人間になりたい。
私の「誇張した感情表現 」の日常を、今、手放さなければ、読者に響くエッセイをきっと一生書けない……と、またこんなふうに危機感を3割増しに書いてしまう。
このように、私の盛り癖は真面目に常態化しているのだ。だからもっと自分の文章と向き合ってみた。まず、自分の言葉のひとつひとつを疑う。


たとえば「胸が震えた」と過去に自分が書いた、映画レビュー記事を疑う。本当は、胸が震えたって感覚はしっくりきていない。でもその映画を観た時、耳の裏のあたりがキーンと痛くなったのは覚えている。

次に「胸がいっぱいになった」と書いてある、過去の自分のブログを疑う。いや、そもそも私は「何」で胸がいっぱいになったのか?思い出せない。しかし、その本のラストを読んだとき、耳と喉のつなぎ目あたりがギューと閉じて、耳鳴りする直前のように周囲の音が小さくなった記憶はある。

そこで私は気づいた。

私、「胸」で感じていない。耳の周辺で受け止めている。だから、私にとって感情の刺激を受け取るのは胸じゃなくて「耳」だ!

たぶんここ最近の健康診断の結果を見るとき以上に、自分の身体と向き合った。
しかし、だ。すぐに感受性豊かなフリをしようとする病気は、簡単に治らない。だから私の場合、「良いエッセイを書くために、自分の感度を上げなければ!」と意気込むのをやめた。まだそれは早い。
まず「感動した」のであれば、自分の体がどう反応して、それをどこで感じ取っているのかを汲み取る。
目を閉じて、胸に手を当てて……いや胸は今のところ不感症だから、私の場合は耳らへんに注力しよう。

「本当に、本っ当にそう思った?」この文章を書いている今も、自分に取り調べをし、自分が取り調べを受けている。









※こちらは2024年8月~10月のさとゆみエッセイ講座の課題『私の人生を変えた一言』で執筆したエッセイです。

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