#61 天国と地獄と
人生で最も見たくなかったタイミングで、不倫現場に遭遇したことがある。
20代のときに店長を勤めていたアパレル店での話だ。
閉店前に1人の男性のお客様がご来店された。車の整備関係のお仕事だろうか、オイルらしきものが付着した作業着姿で、店内のディスプレイを確認しつつも、レジカウンターにいる私の方へずんずん歩いてくる。
私は閉店作業用のレジ画面を閉じ、丸まっていた背筋をシャンと伸ばした。
「いらっしゃいませ」
「あの、嫁がもうすぐ誕生日なんです。この店でいつも服買ってて、プレゼントを買っていきたいんですが……その……嫁が、今までこの店で買ったものが分からなくて……」
つまり男性は、奥様がこの店の常連ということはご存知であるものの、もうすでに奥様がご購入されたアイテムまでは分からないため、私に声をかけたのだ。
男性の奥様の特徴を伺うと、つい最近私が接客した「Aさんと」判明した。3歳の女の子と0歳の男の子を連れ、平日にご来店するお客様だ。
運の良いことに、私がずっとAさんの接客担当をしていたので、私のテンションが急上昇したのは言うまでもない。
なぜならAさんが自店で購入した服やアクセサリーのほとんどは、私が接客したときにお買い上げいただいたもの。なので、私もご購入のお品をしっかり把握できている。
さらに、Aさんが着ていた他ブランドの服や小物も覚えていた。Aさんがご来店時に着ていた服にも合うコーディネートを、毎回提案していたからだ。
『こりゃあ気合が入るぜっっ!!』
と、内心高ぶるテンションをどうにか抑え、21:50をまわった店内で、Aさんのご主人とAさんのプレゼントを選ぶ。
ご主人「これ、嫁が着てた気がするんですが……」
私「はい、そちらはグレーとカーキの2色を購入されましたよ。」
ご主人「ですよね!これに合うネックレスとかありますか?」
私「ありますよー!あ、でもこの前、お子さんに引っ張られて、ちぎれちゃったって仰ってましたから、ストールのほうが安全かもしれません」
ご主人「あ、なるほど!じゃあストール……っていうんですか?マフラーみたいなの?その……色は何色がありますか?」
とにかくその晩は、私のファッションアドバイザーとしてのキャリアを存分に出し切った。
そしてAさんのために、プレゼントを一生懸命選んでいるご主人が、素敵すぎて、なんだか私が惚れてしまいそうにもなっていた。(こら)
5点ほどAさんのために選ばれた品を、私が丁寧にラッピングし終わったところで、懐中電灯を持った警備員さんが店内に入ってきた。すでに22:30を回っている。22:00閉店のショッピングモールで、照明が煌々と付いていたので、何事かと見回りに来たのだろう。
「ああ、すみません、もう出ますから!」とAさんのご主人は警備員さんに謝る。
「いえいえ、いいんですよ!奥様、きっと喜んでくださいますね!」
警備員さんの返事を待たず、私はそう言ってAさんのご主人をお店の前の通路まで見送った。
「本当に遅くまですみません、ありがとうございました!うちの嫁、きっと喜びます!」
私は、警備員さんに連れられエスカレーターを降りるご主人の背中が見えなくなるまで、その場に立っていた。そして、Aさんがそのプレゼントを貰って喜ぶ顔を想像し、その顔を見て同じように笑顔になるご主人を想像する。すると、なんだか私も一緒にお祝いできている感覚になり、1人でニヤけていた。
『今日は良い日だった』
と心で呟いたとき、休みなく2週間も働いていた足の疲れを忘れていることに気づく。
『ま、こんな幸せがあるから、ブラック労働しちゃうんだよなあ』
その日からさらに4日間連続で働いた。
そして、その閉店間際の幸せな接客をした日から、1週間ほど経ったとき、事件は起こる。
私がレジカウンターの前あたりで、「コートの試着をしたい」と仰るお客様の接客をしていたときだ。Aさんのご主人がご来店された。
隣には奥様……ではなかったのである。
奥様より5歳くらい若い、黒髪ロングストレートのギャルを連れていた。
『でぇぇっ……?!』
接客中だったので、私は心の中で叫んだ。人間とは本気で驚いたとき、全く意味の分からない言葉が飛び出るものだと、このときしっかり自覚した。
その2人の姿を見た瞬間から、目の前のお客様にコートの色はどちらをオススメしたのか、全く覚えていない。プロ失格である。
もう、私は接客しながらも、目でチラチラとAさんのご主人と、黒髪ギャルのやりとりを監視していた。
「えっと、黒のLサイズあります?」
目の前のお客様にそうたずねられ、
「あっ、あります!少々お待ちくださいね」
そう答え、黒のLサイズのヘリンボーンコートを取りに行こうと入口側に視線をやった。
そして『げっっ!』と、また心の中で下品に叫んでしまう。
取りに行きたいコートがかかっているあたりで、Aさんのご主人と黒髪ギャルが談笑していたからだ。
『いや、ここはプロなんだ、平常心平常心平常心……』
そう自分に言い聞かせながら、2人の横をサッと通り、120%の笑顔で「いらっしゃいませ」と会釈をし、黒のLサイズのコートを手に戻る。
ちなみに、笑顔を120%で放出すると、目が細まって相手の表情なんて見えない。私が学生時代の接客業で得た技だ。主に「めちゃめちゃ不機嫌そうなお客様」か「あまり関わりたくないと感じたお客様」に使う必殺技である。
そこで私はコートの接客に戻り、脳みそをフル回転させた。
「そうじゃない」パターンを必死に考えよう。
そうじゃないそうじゃないそうじゃない……
ちなみにパターン①からが第1希望。
最も避けたいのは、今から「何か」が始まる可能性もあるパターン③だ。
「もう少し、他を見てから戻ってきます」
「ありがとうございます、もし気になっていただけたら、またぜひ!」
コートを悩んでいたお客様の接客が終わった。
そして私はまたAさんのご主人と黒髪ギャルのいた場所をチラッと見る。
ああ、まだいる。
私があの時の店員だと気づいていないのだろうか。この前の夜はプレゼント選びに夢中だったから、私の顔なんて全く見ていなかったのかもしれない。
……にしても、だ。
自分の妻のプレゼントを選んだお店に、不倫相手を連れてくる人なんているだろうか。
きっとこれはパターン②あたりが正解だろうな。いとこだ、いとこ。
で、ちょっと女の子のほうは、年上のいとこのお兄ちゃんに懐いてて……って感じ。うんうん、そんな感じだよ、きっと。
私は自分の目に映っている現実にショックを受けたくないあまり、2人の関係に血の繋がりを想像し、心を落ち着かせようとした。
妹か、いとこか……
『でぇっっっ!!!!!!』
声には出さなかったが、やはり私は心の中で、はっきり「でぇ」と叫んでいた。
なんと、黒髪ギャルはAさんのご主人の腕に、スッと自分の腕を絡めたのだ。
『うっそーーーーーーん』
私は畳むために広げたウール素材のトップスをその場で握りしめ、完全に2人を凝視していた。
『いや、アカンやろ、夫さん、振り払って!ってか、お願い、このお店の中だけではイチャつかんでよ、マジで!!!振り払ってよ、お願いやけん!!』
先週、Aさんのために悩みながらプレゼントを選んでいたご主人が、今私の目の前で、他の女性に違う笑顔を見せていた。
もう見ていられなくなり、私はお店の奥のストックルームに下がろうとする。
と、そこへ休憩中だった販売員スタッフのNちゃんが戻ってきた。
「助かった、早くNちゃんに店番を変わってもらって、休憩入ろ」
しかしそこで信じられないことが……
Nちゃんの後ろには、ベビーカーを押しながら入店するAさんがいたのだ。
『でぇっっっ?!?!うっそーーーーーーん』
終わった。もう何もかも終わりだ。
今、店内にはAさんと、Aさんのご主人、そしてAさんのご主人の不倫相手・黒髪ギャルがいる。
修羅場?うん、ふつうに修羅場だな。
頼むから、口論でおさまってくれ。
手が出たら、私は間に入って止めなければいけないのか?
「申し訳ございません、他のお客様のご迷惑になるので……」
そんなセリフ、学生時代の居酒屋のバイトで、イッキ飲みコールがうるさい学生たちにしか言ったことがない。
すると、さらに自分の見えている世界が歪みだした。
Aさんのご来店から遅れること1分。
なんと……女の子を抱っこした「Aさんのご主人」がお店に入ってきたのだ。
Aさんのご主人が2人。着ている服は違うが、全く同じ顔と身長なのである。
『……あ、コレ、夢ね』
もう私の脳は何も考えられなくなり、夢オチで完結させようとした。しかし夢は覚めない。
ウールニットを握りしめる手の汗も、背筋から吹き出すような冷たい汗の感覚も、とてもリアルに感じる。体の水分がどんどん抜けて、喉の奥あたりが渇いていく感じも、夢なのだろうか。
「店長!!ありがとね!!」
いつの間にか目の前にいるAさんから、お礼を言われ、目線をAさんに戻した。
「え?!」
何が何だか理解できていない私は、完全に営業スマイルを忘れ、真顔で返事をしてしまう。
「プ・レ・ゼ・ン・ト!旦那と選んでくれたんやろ?今日つけてきたよ!」
そう言ったAさんの首元を見ると、あの日ご主人がプレゼントで買ったストールが巻かれていた。
そしてAさんの背後では、「娘を抱っこしたAさんのご主人」と「黒髪ギャルと不倫中のAさんのご主人」が話している。
『え?どゆこと?』
完全に不倫パターン脳になっていた私は、自分の目に何が映っているのか、理解できない。やはり夢?とひたすら困惑していた。
Aさんが振り返り、黒髪ギャルを手招きする。
「ね、これ!可愛いやろ?コレもここの店のやつ!」
そう言って、レジ横の小物棚の雑貨を指す。
そのあたりで、ようやく私の脳は再生した。
「双子……です……か?」
絞り出すような声で、Aさんにたずねる。
「え?ああ、旦那のこと?そうそう、あれ、双子の弟。で、この子が弟の彼女」
そう言って黒髪ギャルを紹介してくれた。
「うわ―――――よかったああああああ」
今度は、心ではなく声に出して叫んでいた。そして思わずその場にしゃがみ込む。もう足と腰のチカラが完全に抜けてしまい、立っていられない。
「え?」と不思議な顔をするAさん。
私はそこではじめて、一連の『勘違い話』を説明すると、Aさんは大爆笑。
「うわーマジか!そりゃあ店長、気まずかったやろうねーーー!!」
Aさんは手を叩いて笑っていた。
「いや、もう、気まずいなんてもんじゃないですよ!あれだけご主人、真剣に奥様のプレゼント選んでたのにぃぃ!ってめちゃ焦りました」
早口で感情を吐露しながら、やっと私も笑えた。
「今日は店長にお礼を伝えに来ただけ!あと弟の彼女が、私の服を褒めてくれたから、この店で待ち合わせにしたんよ」
ああ、良かった!本当に、ほんっっとうに、良かった!!!
Aさんのご主人の愛情は本物で、Aさんのお店に対する好意も本物だった。
私は勝手に勘違いして1人でパニックになったぶん、本当の世界はどんなドラマよりも優しくできているのだと感じた。
世間で報道される不倫は、全てこんな勘違いだったらいいのに。