見出し画像

15.沈む海

 わたしの田舎にはほとんど知られていないのだが、世界遺産で知られるダードルドアのアーチ石と、かなり似た場所がある。
 石灰岩でできた海岸が浸食されてできたところは同じで、周囲が切り立った崖に囲まれた、小さな内湾の片方が、半円に抉られて門のように見えるのだ。
 浜はチョークの小石混じりの砂浜で、崖肌が白いのに何故か砂は赤い。
 水は澄んでいる。
 晴れると空と海の境界さえ曖昧になりそうな美しい外洋、そこから続く青が唐突に近場で濃くなるのは、急な水深の変化による。アーチ石の下に、底の見えない深い海溝があるからだ。
 わたしの田舎、と言ったが、実際の村は二マイルほどそこから離れたところにあって、そこまでの道はひとつしかなく、砂利道の他には牧草地が広がっている限りだ。最近になって、知られざる秘境としてちょっと名が知られるようになるまでは、海辺には夏場だけの海の家さえ存在しなかった。
 ウェブサイトで偶然名前を見つけ、観光客を受け入れていることを知り、わたしは本当に驚いた。白亜の門はーーわたしたちはそこをそう呼んでいたーー、あの頃、十三歳以下しか入ってはいけない決まりだったのだから。
 内湾なので波は穏やかだが、どんな酷暑の夏にも真冬の寒さでも、門の辺りの水温がほぼ一定だった。ということは外海からの水との温度差で内部に海流が発生する、危険も確かにあったわけで、子ども以外が涼をとるのを禁止するのはどう考えてもおかしいけれど、当時はそれが当たり前で、異常に気が付きもしなかった。
 また、水遊びをする子どもは、上半身の水着は付けないことが決まっていた。
 わたしはそれがとても恥ずかしくて、同級生の中でも早く、小学校の高学年に上がる前から、海で遊ぶことはしなくなった。
 同年代の従妹は逆に、十四歳になるぎりぎり直前まで、一糸も纏わぬ姿で水を浴びていた。そんなふうに、全く気にしない子どもは大勢いた。羞恥の理由がわからない、彼らは全くの無垢だった。無邪気に遊んでいるのをみて、わたしは自身に問題があるのかと、悩んだ時期があったくらいだ。
 十四を超えると、あとは人生でたった二回だけ、海へ入水する機会がある。
 十七歳と、四十一歳と。
 十七の祭りの時は、わたしも参加した。
 その夏至の夕方までに誕生日を迎えた住民は、村の教会に集まって司祭さまの話を聞く。
 お説法は始終、知らない言語で行われる。
 両親はラテン語だと思っていたが、パン屋のおじさんはゲール語のようにも聞こえたと言っていた。本は当代の司祭さま以外が触ることも許されておらず、かつ祭りの日以外は厳重に保管されるらしい。
 儀式の参加には年齢制限があるが、見学は自由なので、この日は周辺から多くの人がやってくる。
 ちょっとややこしいのだが、わたしが暮らしていた海岸に一番近い村を含めて、この地域の集落は、まとめてひとつの「村」ということになっている。
 この辺は石灰質の土壌で農業は難しく、昔から牧畜でなんとか食いつないできた地区なのだ。各家の敷地が大きいから、人口はとても少ない。
 だから、ひとところだけでは、十七歳の子がいない年もできてしまう。
 それは困るので、ある時村長が集まり相談して、祭事のときだけはみんなでひとつの村を名乗ることになったのだそうだ。
 実際、少し血縁を辿ると、近しい人たちばかりなのである。
 普段は鄙びた村は、その時ばかりは大量のろうそくと花でどこも飾り立てられ、後に待つ祝宴のために、どこの家でも朝から晩まで持ち寄りの用意に忙しい。
 しかし時刻になれば誰もが口をつぐみ、水を打ったような静寂に包まれるのだ。
 教会は古くてとても小さいので、大きな会合は外でやることになっている。この日は誰も聖堂の中に入れない決まりだ。正門前の小さな広場に、今年の参加者が並ぶ。
 始めに先頭の司祭さまが、入り口から中の祭壇に向かって、祝詞を唱える。もちろんマイクなど使わないし、いつもとても低い声だから、単語ひとつも聞き取れない。
 それが終わると、司祭さまに促された先頭の子が、海まで裸足で練り歩く。
 十七歳の子は全員、絹の衣を着ている。チュニックのような形で、男女差はなく、教会から貸し出される。体型が合わなかったり、どうしてもというのなら自分で用意しても良いのだが、絶対に動物由来の素材でできた布であつらえなければならないと、聞いたことがある。
 二マイルの行程、参加者もその後に続く見学者も、一言も発してはならない。
 喋ってしまった者には天罰がある、といったことはなく、ただ行進から脱落して村に戻らされる。それを見た人たちの表情は「気の毒にねえ」といった感じで、ひんしゅくを買う様子もなく、どちらかというと同情的だ。
 砂浜からは禊を行う子だけが進むことができる。
 黙って水に浸かる。できるだけ深いところが良い、とは言われていた。わたしの時は七人ほど仲間がいたので、大体等間隔に散らばったと思う。
 そこで仰向けに、身体の力を抜いて浮かぶのだ。
 海水に身を委ねると、自然に身体が浮いたり、沈んだりする。息が苦しいとは一度も感じなかった。にもかかわらず奇妙なことに、顔に目が覚めるような冷たい水を浴びせられた瞬間があって、しかしそれはすぐさま、肌を撫でるように海へ戻っていくので、わたしは驚いても目を伏せたままでいられたのだ。
 そして、わたしの儀式の終わりがわかった。
 司祭さま、そして経験者の話ではそれぞれ天啓は違うということだったが、明確な合図だった。
 わたしは選ばれず、立ち上がったときはほとんど波打ち際にいて、振り返るとまだ二人、内湾ぎりぎりの、白い岩門の辺りで浮いていた。
 またしばらくして、ひとりがゆっくりと砂浜まで流れ着くと、いつのまにか最後の子は沈んで見えなくなっていた。
 その時初めて、わたしは海水に濡れた肌が冷え切っていることに気が付いた。
 同時に見学者たちはよかったよかった、と口々に喜びの声を上げ、わたし達にタオルや、温かなお茶を飲ませてくれた。
 それは毎年起こることではない。
 いやあ、よかったねえ、と誰かが嬉しそうに言った。
「ほんとにねえ。あれだけ滞りなく、穏やかに沈むのは珍しいよ」
 誰かが答えたのを覚えている。
 儀式後の砂浜は底抜けに明るく、暗闇のなか白く浮かんでいる白亜の門だけが、いつものようにただ静かに、その口を開いていた。
 我に返ると、見学者の半分はそろそろ村へ引き返しているところで、きっと村で用意が整っているであろう朝まで無礼講の大宴会を楽しみに、後ろ姿だけでもうきうきしているのが見てとれた。
 同い年の他の子たちも緊張をほぐし、笑顔を取り戻しつつあって、わたしもそれで良いような気がして、なんとなくおしゃべりをしながら帰路についたのだった。
 その後、わたしは進学して上京し、就職してからは一度も田舎に戻ったことがない。
 その理由がいつも使う、「電車で五時間もかかるから」という言い訳からばかりでない。そういう時にはいつも、あの後のんきにパーティを楽しんでいた、わたしの姿が脳裏に浮かぶ。
 まだ先のことではあるけれど、次の禊には参加するつもりもない。
 四十一歳の儀式は冬至だから、きっとすごく寒いのだろうし。


読んでくださってありがとうございました。少しでも楽しんで頂けたらうれしいです。