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2. 飴の買い方を忘れたら
彼女は七歳の時から、そこで働いていた。
父親が亡くなったのは六歳の時だ。母親はベッドの中で悲しみに暮れるばかりで、娘に目をくれようともしなかった。そして、次の年には再婚した。母親はすぐに妊娠し、弟が生まれる前に娘を奉公に出した。誰かが働かなければいけなかったし、その役目は妊婦の母のものでも、それを気遣う夫のものでもなかったからだ。
そこは隣の町にある、女たちが金を稼ぐ場所だった。
それからそこが、彼女の住処となった。最初の数年は雑用として、その後は着飾り、自室を持つ女として。雨の日も風の日も、そこで彼女は日々を暮らした。
仕事について、彼女は語りたがらない。
多分世界中のいくつかの仕事よりはましであっただろうし、その他の人からは惨めな境遇に見えたことだろう。どの意見も聞きたいとは思わないのであれば、口をつぐんでいるのが賢明な方法だ。学校に行ったことなどなくても、彼女は必要なことを知っている。
彼女が四十五歳になった時、そこを出されることになった。
給金は全て、義父と母が幸せに生活するため、義弟が大学に行って良い会社に入るために使ってしまったので、彼女の手元には何も残っていなかった。
電車の切手を手に入れた残りの小銭で、はちみつの飴を買った。
夜だというのにまともに明かりさえつかない二等車の固い座席に座り、背筋を伸ばした彼女は、飴を買うのはいつ振りのことだろう、と考えた。
オレンジ色のセロファンの包み紙を持つ、手はすでにシミが浮いて皺が深く、皮膚を支える弾力が失われている。彼女は肌の手入れの仕方を知らない。夜に生きる者にとって、暗闇で見えないものは、ないと同じことだった。
終点まで行くと、そこは山であった。
秋の終わり、冬を予感させる冷たい風に吹かれながら、彼女は道なき道を、頂上に向かって登って行った。
それほどの勾配ではなかったが、木が少ないので冷気を避ける術がなく、中年の身体には少しこたえた。彼女は時々立ち止まり、息を整える。立ち上がれなくなりそうで、腰を下ろして休憩することはできなかった。
山頂近くに、廃屋を見つけた。
それは石を積んで造った昔ながらの山小屋で、半分崩れて落ちており、屋根はほとんど残っていなかった。彼女はなんとかそこにたどり着くと、雑草と瓦礫に埋もれた隙間に潜り込んで、ひざを抱えて丸まった。
目をつぶって息を整えると、だんだんと汗が冷え、身体の表面が固まってくるのを感じる。疲れて全身が痛み、上半身には高熱を帯びているのに、足先は凍ってかじかんでいた。
もう動くことはできない。
しかし、彼女はまぶたのひとつ、動かしたいとは思わなかったので、それならいっそのことと、固まって動けなくなることに専念した。
それは簡単なことだった。思い出す度に心臓を重くするその何かを、黒い砂に変えて塗り込んでいけばいい。
これまでに磨いたガラスの一枚一枚、絞った雑巾の縫い目のひとつひとつ、誰かの肩の向こうに見上げる天井と、窓の外の幻に似た薄っぺらい風景。ある日現れた、赤く燃えるような悲しい夕日に涙を流したこと。それらを余すところなく、膜の内側に重ねていく。
もう寒さは感じない。薄皮を一枚、薄皮を一枚、薄皮をまた一枚。
どのくらいの時間が経ったのだろうか。
気が付いたとき、彼女の中に砂はすでになく、硬く隙間のない殻の中には幼げな少女と、はちみつの飴だけが残された。
そこでようやく、彼女はその没頭から抜け出した。
しかし今でも、廃屋から動く気配はない。服が朽ち、肌を虫が這い、そこに苔が生えてなお、彼女は老嬢の殻を着て、相変わらずそこに座り込んでいる。
いつか、気が済んだら出てくるだろう。
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