【展示レビュー】古きものが呼び起こす、小泉八雲が今に伝える「ゴースト」を見よ (「展示会 小泉八雲 放浪するゴースト」を観て)
0.緒言と余談
10月のとある晴天の日。
新宿四谷にある「須賀神社」に行った。
後で知った話だが、須賀神社はかのヒット作『君の名は。』の聖地であり、ラストシーンの階段は須賀神社の境内に上がるときに通るところらしいのである。
さっぱり知らんかったけど()
とはいえ、自分がどうしてここにふらりと行ったのかと言えばそれもまたアニメきっかけであることを正直に告白せねばならない。
『神様になった日』
アニメ制作会社P.A.ワークス、配給会社アニプレックス、そしてゲームをメインに活躍するシナリオライター麻枝准によるコラボレーションアニメシリーズ第3弾である。須賀神社は同アニメのヒット祈願に麻枝准と制作陣が訪れたことで知られる場所。
この頃は第1話放映直後で、貴重な麻枝准の足跡をたどるのにまたとない機会!とばかりになんとしてもいかねば!と思ったわけである。丁度まとまった仕事を終えたばかりなのでちょうどよく平日昼間に空いた時間を利用したわけである。
結論から言えば麻枝准の絵馬が飾ってあるのを観ることができたし、清涼な空気感の中で「神様」にお詣りはできたし、日本神話みくじを引いたら「天照大神」が出て割と未来は明るかったし、帰り道に可愛い毛玉(でっかい白犬)に飛びつかれたりと(幸せ)大変良き参拝となったけれど。
以上、全部余談である。
本題に戻ろう。というか、本当はこれから話すことのほうが本来は余談だったのである。しかし思いのほか収穫があったので「本題」に昇格したのである。おめでとう。
1.広域シェアサイクルのポートを求めて「新宿歴史博物館」へ
東京都には現在、「広域シェアサイクル」というものがあり、携帯会社のドコモが主体となって運営している「ドコモバイクシェア」が最も有名であり、最大のシェアを獲得していると思われる。
詳しくは割愛するが、須賀神社のある四谷三丁目周辺にはこのシェアサイクルのポートが少ない。しかし少ないながらも皆無ではなく、須賀神社からのランチを経て(このランチの詳細はまた別の機会に詳しく述べたい、おいしかった)最も近いポートが「新宿歴史博物館」であった。
東京に10年以上住んでいながら新宿に博物館があったなんて知らなかったな・・・と思いながらも徒歩で美術館まで行くと、なんと借りられる自転車が一台もないというではないか!!
しばらく呆然とし意気消沈してやる気をなくし帰ろうかとすら思った矢先、ふと美術館の看板をみてみると「小泉八雲」の文字が。どうやら小泉八雲の特別展をやっているらしい。小泉八雲といえば、怪談や霊的存在について並々ならぬ興味を抱いてきた僕にとってめちゃくちゃ重要な人物の一人である。
どうせ仕事をする日でもなかったし時間があったので、博物館に入ってみることにした。
2.新宿歴史博物館のコロナ対策
現在、新型ウィルスの猛威はあらゆる施設に対して影響を与えている。
ここ、新宿歴史博物館もまたその影響を強烈に受けている施設であった。手指消毒は勿論として、受付での検温と、連絡先の記入もすることとなった。
ここまで四谷三丁目~市谷周辺の住宅街(坂多き街である)をわっしわっしと歩いてきた身としては、運動量が多く汗をかいていたこともあってこの検温は不安に思ったものだが、難なくOKが頂けた。代謝魔人はこういう時に不安で困る。()
ついでに書き添えておくと、特別展+常設展のセット券を買って入場する際にも受付を通る必要がある。これはコロナとは関係ないが、最初に入る展示の前にチケットを見せるのは当たり前として、そのあとに行く展示に入る際にもチケットを再度見せなければならないのは面倒に感じた。
常設展と特別展の入り口の間に受付が存在するため、本来なら一度で済むはずなのだ。いちいち顔を覚えていられないというのも、同じく人の顔を覚えられない自分としては共感するのだけれど()、休日ならともかくとして人の少ない平日くらいは一度で済ませてほしかったものである。(白目)
3.ギリシャに生まれアメリカに渡り、日本に帰化した「小泉八雲」の稀有なる人生
さて、小泉八雲といえば日本人の原風景に深く関わってくる人物であるからして、賢明なる読者の皆様はもちろんご存知とは思うのだけれど、もしかしたら初めて知る方もいるかもしれない。
ここで、この小泉八雲という人物がいかなる御仁か、ということについて軽くおさらいしておくことにしよう。
小泉八雲は、生まれ持った名をパトリック・ラフカディオ・ハーン (Patrick Lafcadio Hearn)といい、生まれはギリシャのレフカダ島、育ちはアイルランド・イギリス・フランス等を転々とし、大叔母の厳格なカトリック的教育の元で鬱屈した幼少期を送ることになる。
そして大叔母の破産によりイギリスの全寮制寄宿学校を中退した八雲は、1869年より一念発起しアメリカに移住した。この渡米は彼の人生を大きく変えることになり、アメリカで新聞記者・ジャーナリストとして頭角を現し、事件報道から文芸評論まで広範な著述活動を行う。
ハーパー社の特派員として八雲が日本に渡ったのは明治23年(1890年)の事だった。横浜港から日本に降り立った八雲は日本をすっかり気に入り、日本への長期滞在を決めた。
ニューオリンズ万博で案内役を務めてくれた服部一三や、英訳版『古事記』を出版し八雲に強い影響を与えたチェンバレン氏に就職先のあっせんをしてもらい、島根県尋常中学校、師範学校にて英語教師の仕事を得た。その島根の地で生涯の伴侶・小泉セツと出会うことになる。
松江の寒さに体調を崩し島根を離れ熊本へ転勤した八雲は、セツの実家小泉家に婿入りするとともに、長男の誕生をきっかけに日本人への帰化を決意する。
横浜→松江→熊本と各地を転々としてきた八雲は、東京帝国大学(現在の東京大学)文科大学長より英文学講師として招聘され、明治29年(1896年)9月に一家は東京に移ったのである。八雲は市谷富久町に住み、4人の子どもに恵まれた。のちに八雲は市谷富久町の喧騒を嫌い、西大久保に越している。
明治36年(1903年)1月に帝大より一方的に解雇通知がきたとき、学生の間で留任運動が起こるなど学生からは大いに信頼されていたようである。しかし一連の騒動が精神的に堪えた八雲は結局帝大の講師を辞することとなった。その後翌年3月より招聘された早稲田大学にて9月までおよそ半年間講師を務めたのち、明治37年(1904年)9月26日に急逝した。享年54歳であった。
現在、富久町の成女学園には「旧居跡」の碑が立っており、西大久保には「小泉八雲終焉の地」の碑が立ち、今もなおその場所に八雲が居たことの証を示し続けている。
4.八雲が追う「ゴースト」は、幼い頃の原体験から生まれた
小泉八雲は『怪談』『耳なし芳一』などの著作で知られ、特に日本の民話として語り継がれていた妖怪やお化けなど霊的な存在への並々ならぬ関心を持ってきた人物である。
八雲が霊的な存在に傾倒していったきっかけは二つある。
まずは、八雲自身の幼い頃の原体験。
母ローザが実家のギリシャに去り、アイルランドで大叔母の家に預けられた八雲は、最愛の母と離れ離れになった孤独にさいなまれる中で、お化けや幽霊といった存在を頻繁に幻視するようになる。
八雲自身の孤独が闇を作り、幼い頃の恐怖体験を形成したのだ。八雲が恐怖の対象としたのは必ずしも人間を象ったものだけではなく、「ゴシック建築の尖ったところ」だったり、「巨大な熱帯植物」だったりもした。こうした人工物や自然への「畏怖」も含め、八雲の文学の原点を形作ることになった。
今回の展示では、八雲が幼い頃「顔なしお化け」に遭遇した恐怖体験を綴った『私の守護天使』の草稿を全部見ることができる。これは唯一身近にいた子どもであった従妹のジェーンが憎悪の対象になり、その翌日に出会った時には彼女の顔がなかったというストーリー。日本語訳のキャプションも1枚1枚に付属していて全編を理解できるようになっている。
もう一つの原点は、生涯の伴侶・小泉セツだった。セツは松江藩士である小泉家の娘で、幼い頃より昔話や伝説といったものを好み、のちに亭主となる八雲に対しさまざまな怪談を語り部として聞かせた。名著『怪談』は、そんなセツから聞いたいろいろな物語に自信の原体験を重ねて出来た作品である。
八雲が残した言葉の中でも非常に特徴的なのが「ゴースト」である。それは必ずしも妖怪や幽霊を直接示すものではないが、そうした霊的存在がルーツになって生まれたものであることは間違いない。
ゴーストと言えば某アニメが思い浮かぶが、もしかしたらそれと似たようなものかもしれない。不確かな存在であり、それにもかかわらず八雲の心をつかんで離さなかったもの。
長い人生の中で多くの国や地域を移動し続けた八雲は、まさに「ゴースト」の姿を追って「放浪」していたのではないだろうか。まさに此処にこそ、今回の展示の核心が見えてくる。
本当は行くはずのなかった展示に心奪われた僕も、まさに「ゴースト」に導かれていたのではないか?これはさすがに穿った見方かもしれない。
5.「冬虫夏草」や「カラス」。八雲が描いた絵も注目ポイント!
今回の展示では怪談や妖怪図絵などいろいろな霊的存在がそこかしこに現れる。それは八雲の著作の挿絵であったり、八雲自身がイラスト化したものでもあった。
特に今回展示されている『狂歌百物語』をもとに八雲が描いた絵は、和洋折衷の独自の雰囲気を醸しており、一見の価値ありだ。
イラストと言えば展示の最初の方にも特徴的なイラストがある。それが「カラスの絵」だ。
八雲がアメリカにおいて最初の居所としたのはシンシナティというアメリカ東部の都市で、当時の八雲はシンシナティに住む親戚から厄介払いされ天涯孤独となり、路上で窮乏にあえぎながら生活していた。
その八雲を拾ったのが印刷業を営むヘンリー・ワトキン。彼は八雲の為に印刷の仕事を教え、裁断された紙の山で出来たベッドを与えた。彼が拠り所を与えてくれたおかげで、八雲は執筆に打ち込むことができ、ジャーナリストとして世に出ることができたのである。
このヘンリー・ワトキンとは生涯厚い友情で結ばれた。彼とのやり取りの手紙は膨大な量あり、今回の展示でも多く展示されているが、八雲は自身の署名として「カラスの絵」をかくのが習慣となっていた。これは、ワトキンから「大烏」というあだ名をつけられていたからである。
この烏の絵がなかなかコミカルでかわいらしく、独特なタッチで描かれているので、展示にお越しの際はぜひ注目して見て欲しい。
そして個人的に胸が熱くなったのが「冬虫夏草」だ。
八雲は日常的に植物や虫などを絵に描き留めており、博物的実績も高い人物である。その中でも今回の展示では「小さな生きものへの優しい眼差し」と題し、八雲が描いた虫の絵を特集している。
八雲は特に人間の魂と虫の響き合いに深い関心を持っていた。虫の中にも「ゴースト」があると信じてやまなかった八雲が特に気に入っていたのがセミやコオロギであった。
今回の展示でもひときわ特徴的であったであろう、初版本『影』の挿画として描かれた蝉の絵の中に、なんと「冬虫夏草」があったのだ。
非常に精緻に描かれた蝉の幼虫や成虫。その中の数体の身体に、キノコや植物が生えている。セミは植物や菌類に寄生され、その養分となりやがては死に絶える。これはまさに、日本有数の冬虫夏草コレクションを揃える東北大学自然史博物館で僕が見た標本そのものの姿であった。
八雲はこうした虫たちの生と「死」の混在に並々ならぬ関心があったのだろう。小さな虫が、更に小さな菌類や植物に浸食されていくという無情なる現象。八雲はおそらく、それにも「ゴースト」を感じていたに違いない。少なくとも僕は、そう思った。
6.旧居跡にも「八雲立つ」。古きものが呼び起こす「ゴースト」は今もここにある
常設展示も含めて、新宿歴史博物館の展示を隅から隅まで堪能した後、僕は比較的近くにある「小泉八雲旧居跡」にいってみた。
そこは蔦に覆われた雰囲気のある場所で、今は「成女学園」という学校になっていた。
八雲はそこにはもういない。それはわかっているのだが、この独特な雰囲気と、八雲がここにいたことを示す看板や石碑からは、彼の「ゴースト」が宿っているような気がしてくる。それは彼によって可視化された多種多様な「ゴースト」を見た後だからなのだろう。
小泉八雲の八雲という名は、日本最古の和歌である「八雲立つ~」からきているという。現在の日本の年号である「令和」もまた、現存する日本最古の和歌集から引用されたことを思うと、古きものが今に残す普遍的な価値観を感じざるを得ない。なんだかそれは言葉というより「匂い」として立ち上ってくるような気がしてくるのである。
古くから現代にいたるまで、人々の紡いできた歴史が根付いて今がある。それはどこでもそうなのだが、特に「この場所」からは、その匂いを強く濃く感じたのであった。
それではまた来世。