「家族を想うとき」(ケン・ローチ監督、2019) ①リッキーに希望はあるか。
ケン・ローチ、やっぱすげえわ。
そういう通ぶった感想を用意して見てきた。
ケン・ローチのプロフィールは何も知らない。
顔も、過去の作品も知らない。
とりあえず、映画通たちが絶賛している通りの感想を用意して見てきた。
舞台はイギリス、ニューカッスル。
「ギグ・エコノミー」なるネットを介した企業と「個人事業主」として契約を結んだ主人公・リッキーと家族の物語。
パンフレットには「いったい何と闘えば、家族を幸せにできるのか」の文字。
この映画で戦うべき相手の姿は見えない。
主人公の上司のマローンも大した相手じゃない。
マローンが口にした「株主」がその相手だろうか。
映画を見ると、改めて「なぜ真面目に働いても生活できないのか」というもはや当たり前のような疑問を抱かざるを得ない。
配送ドライバーとして「優等生」として働き、客からもマローンからも評価を得ていたリッキーも、些細なミスでFワード連発で罵られる。評価なんて一瞬で消える。だって、代わりはいくらでもいるんだろうから。
代わりがいくらでもいることは、人としての尊厳を踏みにじる理由になるのか。
私生活では父である、夫であるリッキーは、家族にとってかけがえない人間だ。
そのリッキーは、仕事では代わりなんていくらでもいる人間だ。
でも、なぜか仕事での「かけがえのなさ」を証明したいがために、家族との時間を割いてでも1日14時間、週6日の労働に励む。
僕らは働かなければ生活できない、働かざるもの食うべからずの世界に生きている。
ボコボコにされたって、翌日には仕事をしなければならない。
できなけりゃ、稼げないどころか制裁金を支払わされる。
働けど働けど苦しい生活、リッキーが稼いだ金はどこに行ったのだろう。
リッキーを見ていると苦しくなるのは、家族を持つことが人生を苦しくさせているのではないかという疑問を持つこと。
リッキーは家族を愛している。
明らかな事実だ。
でも「家族のために」と働けば、働くほど家族は離れ離れになり、家族の輪郭線は揺らぐ。
この先、リッキーとその家族が幸せになる未来を描ける視聴者はどれだけいるだろう。
リッキーは妻のアビーに「何がおかしいんだろう」という旨のことを問う。
見ている人ならわかる。
「この働き方がおかしいんだ」と。
息子のセブも、娘のライザもわかっている。
でも、リッキーは気づけない。
未来を想像する。
ネットで注文した商品は自動運転の車によって運ばれる。
荷物の配達はロボットが担うようになるだろう。
暴漢に襲われても大丈夫なように360°カメラがドライブレコーダーさながらの役割を果たしてくれる。
配送先の雰囲気や受取人の表情、服装などのデータも蓄積されるだろう。
巨大企業はますます巨大になっていく。
それで、リッキーたちはどこで彷徨う?
ロボットは疲れないし、居眠り運転もしない。
「面倒な」家族もいない。
人間はどこにいく。
こんな世界を人間は望んでいたのだろうか。
この映画の問いをどう受け止めるか。
ケン・ローチは答えを用意してくれない。
ケン・ローチ、やっぱすげえわ。