他愛のない日々も祝うべき日常
「ライブをして欲しい」
オープンから1周年を翌月に控えたコーヒースタンドで、僕の友人は楽しそうに言った。この人は少し先の計画を本当に楽しそうに話す。企み、と言う言葉が、彼女にはよく似合う。
正確には「ライブをして欲しい」じゃなくて、
「ライブをしたら良いと思うの」
だった気もする。
「良いですね」と、二つ返事でOKした。それ以外の選択肢など、僕はそもそも持ち合わせていない。面白そうな企みには是が非でも首を突っ込むと決めているのだ。
もちろん、面白そう以外にもちゃんと理由はある。
この1年、本当によく通わせてもらった。色々なことを喋ったし、さまざまな人にも出会えた。ただぼーっとするだけの時間を過ごしたりもした。
仕事と日常に比較的切れ目が少ない僕にとって、間違いなくこの場所は深く息ができる居場所だった。この場所の良さを、誰よりも知っているとは言わないけれど、この場所がいかに愛されているかを、この目で見てきた自信はある。
コーヒーを淹れる彼女の背中越しに見た、ここを訪れる人の表情はとても穏やかで、優しいものだ。きっと、彼女の言葉や振る舞いがそうさせるのだろう。僕自身がそうであるように。
ここで過ごす日常があるおかげで、正気を失わずにいられたとさえ思う。本当に感謝しても仕切れないほどの安心をもらっている。
お返しになるかはわからないけど、歌おうと思った。そしてできれば、誰かの言葉を借りるのではなく、自分の言葉でこの気持ちを伝えたかった。となればもう、作るしかない。
ふと、「祝祭」という言葉が頭に浮かんだ。
若者支援という仕事をしていると、僕らが日常と謳い日々享受している日常というものが、いかに脆いものかを思い知る瞬間がいくつもある。
些細なきっかけや、ちょっとした前提のズレ、自分にはどうすることもできない環境要因で、平穏は最も簡単に崩れ去ってしまう。
だから、祝うべきなのだ。「それくらいのこと」と誰かが嗤うようなことでも、日々僕を生かす他愛もなさを。
祝うべきなのだ。血がつながっていなかろうと、温かさを交わし合える血の通った関係を。
当初は集う人たちの笑顔溢れる風景を思って、不意に口ずさめるような軽やかなテーマソングを書こうと思っていたけれど、書き進めるうちに段々と僕の主観に寄って行った結果、なんだかエモーショナルな感じに落ち着いてしまった。
それでも、ここで過ごした時間への感謝を素直に表せたように思う。
コーヒースタンドの名前に因んだフレーズも、自然に入れられた気がする。
声を交わせる、笑い合えるこの関係性は、流れるような日々の中では普通のこと、当たり前のことのように思えてしまうけれど、実はきっと特別なこと。きっかけや出会いは偶然でも、この関係性に血が通うに至るまでには確かな意志があったはず。ひとつひとつは些細で他愛もないことかもしれないけれど、その他愛のないことこそが、人を生かすのだということを、僕は身をもって知っている。
迎えた周年イベント当日。通常のコーヒースタンドの営業に加えて、1年間の間に彼女が撮り溜めた日々の記憶の展示。
これまでの日々の積み重ねを体現するような、穏やかで温かさに満ちた1日だった。
コーヒースタンドの営業後に行われた3ステージ目の演奏を、彼女は部屋の傍の廊下で聞いていた。
届いただろうか。届いていたらいいな。
額縁におさめるように切り取った日々はこれまでも、これからもきっと愛すべき普通で、祝うべき日常だ。
2024.06.04追記
後日、本屋でたまたま見つけた詩集にこんな詩があって、偶然の一致に驚いたので、残しておきたい。
出会いの数だけ別れがあるけど、別れが出会いの数を上回ることはない。いつかB'zも歌っていたけど、「人間なんて誰だってとても普通で、出会いはどれだって特別」だ。