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どうして授業で手を上げる子供が少なくなったのか
久しぶりに子供の授業参観に行ってみた。
先生が問いを出し、それについて意見を子供たちから引き出そうと挙手を促した。我が子が手を上げないので、親としては子供の活躍する姿を見たい気持ちもあり、手を上げるようジェスチャーで伝えようかとしたのだが、よく見ると、誰も手を上げない。
問い自体は、道徳の資料から、どんな事を感じたかという明確に答えのないもので、子供の考えを聞く問いであった。むしろ、色んな意見が出た方が良さそうなもので、先生もそれを期待していたのだろう。しかし、誰も手を上げない。正解がないため、誰もが答えられる問いである。算数のように明確に答えがあり、間違ったらどうしよう、みんなの前で間違えるのが恥ずかしいといった思考にはならないはずである。
気まずい雰囲気が流れ、先生がやむ無く誰かを指名して、答える。その子は、まるで準備していたかのように、すらすらと自分の考えを述べた。
あれ?答えられるんだ?というのが率直な感想だった。
という事は、決して自分の考えがない訳ではないが、自ら手を挙げることはしない。という事になる。
一体どんな心理が働いて、そのような状態になるのか。
まず考えたのが、手を挙げる行為そのものが目立つからではないか?という事だ。これは一つの要因であると思われる。誰も手を挙げない中で、自分一人が手を挙げるのは確かに目立つ。しかし、他にも誰かが手を挙げる状況では目立つ事はない。つまり、この心理が働くためには、恒常的に手を挙げない状態があるという前提がないと成り立たない。
つぎに、先生が別の問いをした。筆者の意見に賛成か反対かという質問だ。どちらかに手を挙げるようにと指示された。すると、賛成が3名、反対が10名。しかし、クラスには30名いる。全員が手を挙げないので、仕方なくどちらでもないという選択肢を与えた。すると、賛成3名、反対7名、どちらでもない20名となった。賛成の3名は変わらなかったが、何と反対が減り、どちらでもないが圧倒的多数になった。
またまた謎が深まる。賛成の3名反対の7名は、意見が変わらなかったので、自分の考えに基づいて手を挙げたと考えられる。気になるのは、反対からどちらでもないに変わった3名だ。そして、最初は挙げなかった17名だ。
ここで、最初に挙げなかった17名について考える。この子たちは、おそらく自分の考えを知られたくない、みんなに晒したくないという心理ではないかと考えられる。賛成か反対かの2択では、どちらか自分の立場を表明しなくてはならない。したがって、当たり障りのない、つまり目立たない、どちらでもないが良いのである。ちなみに我が子は、このどちらでもないに手を挙げた。
後で何でどちらでもないにしたのか聞いた所、本当は賛成だったけど、2択だったから手を挙げなかったとの事。どうして、3択になった時に賛成に手を挙げなかったのはなぜかを聞くと、自分の考えを他の人に知られたくないのだという。どちらでもないは、自分の考えがあってもなくても答えられるし、当たり障りがないということらしい。どうやら、目立つとか目立たないとかを気にしている訳ではなく、自分の意見が見えないようにしたいということだ。
つまり、
自分の考えを公に出す事を避ける
という心理である。
親としては、何とも情けない気持ちになる。が、これも子供の特性、集団の中で生き延びるための方法なのかもしれない。
さて、次に意見が変わった3名について考察することにする。この3人については、目立ちたくないという事ではない。また、意見を出すことを避けているわけではない。どんな心理なのか?
これも、先程の心理からある程度説明できるのではないかと考えた。
例えば、この子たちも手を挙げはしたが、自分の考えを知られたくないという心理がそもそも働いていたとする。この子たちは賛成が反対の2択なので、おそらくほとんどの子が手を挙げると踏んで、反対に手を挙げたのではないだろうか。結果的に手を挙げない子がかなりいた事から、目立ってしまったが。要するに、この子たちにしてみたら、2択なのに手を挙げないという選択肢があり、それを想定できていなかっただけなのではないだろうか。結果、どちらでもないという選択肢が増えると、そちらを選ぶ。この心理は、やはり自分の考えを知られたくないという心理であろう。
こうなると、もはや自分の意見などではなく、
とにかく、
数が多そうな方に手を挙げる
という事に行きつく。
すると、全員に質問する形で聞いたものについては、子供たちの現状を何も表さない。もはや、質問するだけ無駄である。授業のリズムを作るのに必要な側面は残るが、それ以外は何にもならない。
では、個別に指名して当てた場合は、どうか。子供に聞くと、1人目だけは勘弁してほしいとのこと。当てられたら答えざるを得ず、いきなりわからないと答えるのも気まずいという。2人目ならどうか?と聞くと、前の人と同じですと言えば、先生は流してくれるから大丈夫という。また、わからないって誰かが言ってくれたらもっと楽になるそうだ。
かつては、間違おうがお構いなしに子供が手を挙げていた光景は絶滅した。さらに、勉強ができる子ばかりが手を挙げる時代も終焉を迎えた。
主体的に学習する態度とは程遠い現実がそこにある。むしろ、主体的に学習する態度を評価する事が、このような現状を生んでいる可能性すらあるのではないだろうか。