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6 自由に生きる―タイ仏教僧として―

 そうそう、日蓮宗では「法華経」をはじめとした三部経典を所依の経典としていますよね。その一つである観普賢菩薩行法経の一節に、「衆罪は霜露の如し、慧日能く消除す」という言葉がありますよね。全ての罪業や苦しみといったものも、霜や露のようなものである。智慧の光に照らされたときに、それは全て滅し尽くされていくよと、そういった意味合いだと思うのですが、そうした現象は、確かに起こり得るのだと。それを実体験を通じて確信できたのが私にとって出家したことの何よりもの収穫でした。

 ところで巷には、「人生とは苦しみであると悟るのが仏の教えだ」とか、誤解を招くような言説もよく耳にします。 実際のところ、釈尊はそういった表現はしておらず、苦しみがあるということは、必ず原因があるだから、その原因に目を向けしっかりと取り組み、それを取り除いていけば、苦しみからの解放が起こる。自らの体験からそれを確信されて、弟子たちに説かれたわけですね。そしてそういったことが法華経にも書かれているわけですね。どんな苦しみも修行による智慧の光に照らされれば、たちまちのうちに消え去っていくと。瞑想修行を通して、そうした実感を私自身も得られたわけです。

 その後、だんだんと自分自身の修行だけではなく、いろいろな社会活動を、僧侶の身で始めるようになりました。 特に森林保護活動については、タイの僧侶たちは、非常に熱心でした。その理由ですが、私も森の中に住んでみて 「森は本当にすばらしい。私たちの心と体を癒してくれる、整えてくれる、そういったすごい場所なのだ」というこ とが実感されてくるのです。すると、近代化の流れの中で乱伐されていく森の惨状にいてもたってもいられなくなります。それで、例えば木に僧衣を巻きつけて聖木化したり、あるいは森の中に仏像を建てたりして、盗伐や乱伐を防ぐ。また、子供たちをバードウオッチングへ連れて行って、鳥のかわいらしい姿を見せながら、森の大切さを伝えていくなど、お坊さんそれぞれ、いろいろな方便を用いて、森を守るための運動が展開されていったのでした。ちょうど私のお寺にも、村の子供たちの教育にとても熱心なお坊さんがいましたので、私もそのお坊さんと一緒に、村の子供たちの情操教育に携わってまいりました。 その後、師僧のルアンポー・カムキアン師と、アメリカや台湾に瞑想指導へ行く機会も持てました。

 一九九五年には、ご存知の通り、阪神大震災オウム事件が勃発しました。この頃から私も日本に一時帰国するよ うになりました。そして、だんだんとタイの農村開発から瞑想を通した心の開発というところに強く関心が向くようになりました。また、自分自身だけの救いというところから、人と共に修行するというスタイルにだんだん変化してきました。