11 自由に生きる―タイ仏教僧として―
法華経といえば、私、観音様が大好きなのです。著書の中でも公言しています。法華経では、観世音菩薩普門品で 観音様が登場してきますよね。観音様は自由に三十三変化して、様々な状況にある衆生たちを、百万億の方便でもって救っていかれるということですよね。その姿こそが、私自身の修行者としての理想像でございます。自我などといったものに一切こだわらず、真に自由にあるからこそ、そうした素晴らしいパフォーマンスを生きることが可能になるのではないかと思います。そんな意味では、観音様とは、拝む対象というよりは、私たち一人ひとりが、実現可能 な意識と行動の最高の可能性を具現化したシンボルなのではないでしょうか。
そういえば一般に「千手観音」として知られる千手千眼観世音菩薩像の手のひらの一つひとつに、すべて眼がつい ているそうですね。これは無我を看破し、真の自由を実現した智慧の眼と、その智慧をもとに衆生の抜苦与楽を実現していく慈悲の行動力を示す手。そして一つひとつの手に持つ道具が方便力を象徴しているのでしょう。すなわち、智慧と慈悲、そして方便という三位一体の統合、そうした人間の実現可能な最高の生きかたを千手観音像が表現しているのではないかと思います。
この集会では皆様からいろいろな発表がありましたね。様々なボランティア活動、社会貢献活動のご報告がございました。同じ僧侶という立場で地道な菩薩行の実践をされている皆様がいることを知ることができ、私自身とても励まされました。私も皆様に負けずにこれからもがんばって自らのお役に邁進してまいりたいと思います。
本日は、同じブッダ釈尊の教えをよりどころとして、一切衆生の抜苦与楽を実現していこうという志、いわば観音様スピリットに溢れた皆様の前で、お話をする機会をいただけましたこと、心から感謝申し上げます。誠につたないお話ではございましたが、ご清聴どうもありがとうございました。
司会:プラユキ先生、どうもありがとうございました。以上で終了とさせていただきます。今一度、プラユキ先生に大きな拍手をお願いいたします。ありがとうございました。
参考資料:「世間的な自由と仏教的な自由」
☆「自由」とは?
・「心のままであること。あるいは外的束縛や強制がないことを意味する。」
〜ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
・「① 他からの強制・拘束・支配などを受けないで、自らの意志や本性に従っていること(さま)。② 物事が自分の思うままになるさま。③ わがまま。気まま。」~大辞林
・以上より、「一般的(世間的)な自由」は、だいたい以下の三つにまとめられる
1, 外的な束縛、拘束、妨害、支配がない。
2, 自分の意(思い、心)のままに振る舞える。
3, わがまま。勝手気まま。 民主的、平和的な社会環境が整い、基本的人権が尊重されている(⇄奴隷制度)
・「仏教的な自由」の「一般的(世間的)な自由」との相違
1, 内的な思考パターン、感情や記憶、心のクセ等に支配されていないこと(=「無執着」)が重要。
2, 自分の意(思い、心)のままに振る舞うことは、必ずしも「自由」であるとみなされていない。
3, 「わがまま、勝手気まま」であることは、煩悩(我)に支配されている「放逸」状態であるとみなす。
※「心の奴隷(=渇愛や自我への執着)」になっていないことが大切
☆私自身の「自由」の深まりの変遷
❶日本社会・ 自分自身を省みる。自らを拠り所に。
~「自らを拠り所とせよ」
❷戒律(227 戒)遵守と瞑想体験により、心身についての理解が深まり、変容が生ずる。
~ 心を自由にする戒律
❸各地の寺でリトリート瞑想修行。 多くの師から様々な瞑想法を学び実践。
~「衆罪は霜露の如し。慧日能く消除す」
❹慈悲の実践を通した自他共の自由(=自他の抜苦与楽)。
~「方便力」(=upaya「近づける」が原義)