ご先祖さま、さわられちゃいました。ーー成長小説・秋の月、風の夜(91)
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宮垣は、自分の原稿が赤字だらけになった代わりに、記述の正確さ簡潔さが真水のごとく読み手にしみこむことに満足した。
構成が抜本的に筋道だって直され、ブロック毎に簡潔だからこそ、宮垣ならではの解説のおもしろみが際立った。
宮垣は四章三項と五章二項に目を通し、もはや、あとの章項をみなかった。
赤を入れていて四郎が(宮垣先生は、ここえらい気に入っとんさる)と推察した項だけを、やはり見た。それで原稿そのものを閉じて、四郎に返した。
「修正は全部、あなたの仕事に任せるから、この読みやすさで整えてもらえるとありがたい。なんだ、楷由社(かいゆうしゃ)さんも三年前の一冊目からこういう社員をよこせばいいのに」
「その頃はたぶん、中学三年です、申し訳ありません」四郎は答え、宮垣は豪快に笑った。
宮垣はそして、四郎の体をざっと眺めた。
「背骨のジョイント部と、骨盤が、ガタガタだな」
「えっ」
「ストレッチでは、治らないんだよ。腰椎三番二番が特にひどいな、わかってるだろうが。歪んだまま目でまっすぐに補正するから、見た目まっすぐで歪みを増してしまう。
猫背になりかけてるのに、気づいてたか? あとは、腰椎のよじれで、へそが若干、正面を向いていないだろう」
「あっ、お恥ずかしい、一目でわかりゃーす」
「あたりまえだ。誰に言ってる。一度、来なさいよ」
「はい」
そのまま帰りかけたが、思い直して「予約、してってもええですか」と尋ねた。
「じゃあ、今からみてあげるよ。こっちでの打合せが時間を食ったことにしておきなさい。初回料金ね。次回から二回目以降料金」
一時間ぐらい帰社が遅れても、いいか。四郎は腰かけ、渡されたカルテに住所氏名を書き始めた。
「校正やってるってことは、嶺生(ねおい)くんは、教室の代稽古なんかする気はないのか……腕も教え方も、尋常じゃねぇのになぁ」
カルテに書き込まれる字をみながら、宮垣は言った。それで、カルテの字の書きようも治療の観点からみているのだ、とわかった。
四郎は手を止めずに答えた。
「教えてもらったのが、学生剣道やあらへんもんで」
「そうか。……公開に向かん、とことん殺しにいく古流か」
「……はい」
人が苦痛で教室への代稽古などを望めない、とは言えなかった。
背広をハンガーにかけ、ネクタイ腕時計をはずし「ベルトも取らなあかん……ですか」と四郎は確認した。
「うん、取ってうつぶせ」言ってみてから、「汗をかくかもしれん、下着も脱いでぜんぶ着替えなさい」と宮垣はロッカーのTシャツとズボンとを指さし、四郎は従った。
「あの」四郎はうつぶせのまま、宮垣が、何に注目し何を読み取るかをたずねた。「宮垣先生は、俺の教え方は、どこで評価してくだれたんですか」
「……赤の入れ方に、現れてるよ」宮垣の手がふと止まって、肩甲骨の間に置かれた。「筆者の魅力や強みは、ことごとく尊重してある。せっかくのいいところを削いでいるクセと誤り乱れには、完膚なきまでに手を入れきる。しかし、順序さえ変えればよくなるものは、元の姿を尊重し、後先の入れかえに徹する。
今回の原稿で言えば、私のよさと土田のよさとを、活かすことに徹した。なにに徹しているかは、原稿にも武芸にも、まっすぐ出る。日々、自分のクセを、取り除き続けているのがわかる。阻むものが少ないほど、腕も上がるし教え方もきわだつ」
宮垣は四郎の、脊椎を触っていく。「……だが自分自身についても、生来のよさを伸ばそうとするのであれば、こういう固さや左右差が、脊椎・骨盤回りや筋肉に出ちゃまずいのは、わかるな」
「はい」
「頭で余計なことをいくつも考えながら、稽古して、直して……と、鬱屈して重ねこんでいくと、こうなる。どうしたらいいのか、と問いかける前提が、どうしようもなく深刻と思ってしまうと、答えの出ようがない。結構な地獄を、先祖代々、自分たちで作り込んだな」
自分たちで作り込んだ地獄か……と、四郎は沈んだ気分になった。
宮垣の太い指が、腰椎と脊椎を押しては、ぐい、ぐい、と払って行く。
「首肩の固さ、間違って背負わされてしまったものを、どうすればいいか困っているようだ」
「おっしゃるとおりです……あっ、そ、そうなんやて」
四郎は、宮垣がどこまで自分の内側の地獄を言い当てていくのか、おそれ半分、希望半分で、きいていた。
「急がないと」とつぶやいたときの高橋の表情が、ふと思い起こされた。
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宮垣の話は、校正原稿の解説に戻っていった。
「本の三章の話をしとくぞ。
人間は、鰓(えら)呼吸時代の神経を、胎児期にいちど生成して、そのあと一部残して消すんだ。横隔神経のはじまりは首だと、知っているかな」
「図版レベルでは知っとるけども。何が首のほぐしの決め手か、みたいなわかりかたしとらへん」
四郎は、高橋の右首から肩、右腕にかけての凝りと炎症を自分がメンテナンスしても取りきれないことを思って、答えた。
「横隔神経ぜんたいをチェックしてやることで、首の凝りがやわらぐ面もある、そして、文字通り背負わされたものを捨てると、軽くなる面もある」
文字通り、背負わされたもの……
ふいに四郎は、自分の手当ての未熟さに衝撃を受けた。
高橋が背負っているおじおばの末路と、初代二代から継いだ「雅峰」という号のプレッシャーを、全く思いつきもせず、取ってやれなかったことに気づいたのだ。
ああ、と息がもれた。高橋のあの痛みは心因性なのだ。
「どうした、自分の手当てに足りなかったもんを見っけたか」
「……はい」
「尊い気づきだな」
尊いどころか……四郎は自分を責める気分をとどめ得なかった。ぽん、と宮垣に叩かれた。「そこで自分を責めるから、体がどんどん悪くなる。後悔するヒマがあったら、気づきを成長ととらえて評価し、技を磨いて相手にあたれ。いつも、必ず間に合うと確信していろ。その心構えがないと自滅しちまって、施術の腕をあげていく気力も体力も続かんのだ」
「……はい」
「あとは、他人にした手当てのことを考えてるのもいいが、こういう状態のときは自分に集中するのがいいな」
言われて、四郎の雑念はうろうろとさまよった。
高橋じしんが、いつも四郎のことを先にしてくれることで、自分の奥底の発狂恐怖を後回しにしている。
ふいに、なにもかもあきらめた場所から自分が脱出して、ザイルパートナーとして高橋の手を握っていなければ、自分を親友と呼んでくれた男が滑落していってしまうであろうことに気づいて、四郎は慄然とした。
宮垣は首から後背へと、大きく手をあてた。手のあたりようで、横隔神経全体、という範囲が、解剖図版から自分のからだにひきうつされて、感覚できた。「ああ……うわあ、きもち……ええですね」
きもちいいという表現はまっかな嘘だ。先祖代々の虐待経験を体に集積された四郎にとって、誰かの手が自分の体に触れるのは、苦痛以外の何ものでもない。
苦痛を押さえこむがゆえに、さらに過剰に反応し、びくんと動きそうな自分を押さえこむ。必死でおさえつける。
反射的に嘘の気持ちを建前をたてるように差し出すのは、それをしないと殴る蹴るが続くから反射になってしまったクセだ。
施術台にうつぶせになって、四郎はひとつひとつのミリ秒の自分の内側の反応に愕然とし続ける。
そして、宮垣は手ですべて読み取っている。
しらんかおをした宮垣の説明は続く。
「末端は末端だけでとらえるより、はじめからおわりまでとらえるんだナ。足のアーチは、腰椎から骨盤内内臓群の情報を集めて足裏に出してる。腰から末端をはじめからおわりまで」
宮垣はこんどは、腰椎から足裏に手をあてる。神経の走る幅を感覚するのが、あまりに苦痛で、四郎は必死でこらえる。
「肩も、腰も、背負ってしまった感覚がとても強いな。代々自分たちで作り込んだ、ざっと七-八百年ものの地獄、というべきか」
四郎は黙ったままでいた。よく時代勘定がわかるな、独特のスケーリングメジャーを持っているに違いない、と思った。宮垣は続けた。
「体のモンダイというより、先祖モンダイだなーこりゃあ!」
四郎はそれを聞いて思わず、気取(けど)られぬようにと、息を普通どおり深く吐いた。
(ああ、ご先祖さまんら、やっぱりこの人、さわらっせるとわかりゃーす)
ずるずる、びちゃびちゃ動いていたご先祖さまたちが、息をひそめ、しんと静まりかえる。
高橋が以前、何人ものご先祖さまを成仏させてくれたときと、同じようなひそみかた……
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「最大値の2割」ぐらいで構わないから、ご機嫌でいたい。いろいろあって、いろいろ重なって、とてもご機嫌でいられない時の「逃げ場」であってほしい。そういう書き物を書けたら幸せです。ありがとう!