居場所は、紙の中。【物語・先の一打(せんのひとうち)】28
「おやすみ」と言い合って、高橋と部屋をわかれてから、ぼそぼそと四郎は奈々瀬に話をつづけた。しかも、行ったことのない修学旅行よりスペシャルなことに、少し離した互いの布団で手をつなぎあって。
外へ出た手は寒いものだから、奈々瀬の手を布団の中に入れさせて、四郎は手をのばしてつないでいた。昨夜と同じように。
奈々瀬が身じろぎし、つないだ手をいちど離し、形をかえてつないだ。
そんななんでもない動作にも、四郎の側には拒絶へのおびえと懐疑と緊張がわくのだった。
(自分がこういう状態からはやく抜け出さんと、奈々瀬のいごこちが悪いやろう)四郎はそう思った。
「学校にも、家にも、会社にも、俺の居場所がある感じがしやへんのやて」
奈々瀬は口の傷にさわらないささやき声で「どこにならあるの」と聞いた。
「え、紙の中。俺、本の中に居場所があってさ。さぶい道場の廊下で正座二時間とかさせられると、蹴られたとこが余計痛なって、ずきずきが大きなって、とにかく何かでまぎらさんと、かなわんやろ? まず、本棚が狙いやとはわからんように、本棚の斜め横に座っとくんやん。誰もおらんようになってから、どの本でもええ、ぱっとページ開いて閉じて正座して、ずーっとその場面が手がかりになるとこを思い浮かべてそん中におるようにするんやて。
場面の前へ戻って、先へ進んで、ずーっとずーっと。読んだらあかんのな、本。お前、本読んどったやろー、てってばれると、その場所では正座できんようになるでさ。
とにかく一瞬だけ見たもんを頭の中で暗記暗誦思い出し。それにいっしょけんめいになっとると、さぶいの痛いの関係のうなってくるでさ」
本に関する自分の話を奈々瀬にするのは、初めてだった。
四郎は語りながら不思議だった。どうしてこう得意げにしゃべっているだろう、自分は。こんなみじめな体験を、どうしてこう、嬉しそうにしゃべって。
「本の中の大人は俺のこと殴らへんし、立派やし、人に優しいし、邪悪な存在はとことん我が道を行くし、親戚中にしょうもないてっていわれるおじさんもおもしろいし、本の中の人はみんな、わかりやすい。
急に機嫌悪ぅなるとか、前こう言っとったのに違うやんとか、言っとることとやっとることと違うやんとか、わけのわからん暴言吐かれたり暴力ふるわれたりとか、しやへんやん。
もう少しがんばれ、助けがくるぞ、てって言ってくれる徳川家康の伝記の中の鳥居強右衛門や、ぶつぶつ言いながらずーっと味方してくれるナルニアの沼人や、ドリトル先生や、シャーロック・ホームズとワトソンや、ミス・マープルや、そういう人んらがおるとこ。そういう紙の中。俺の居場所」
息継ぎをして、四郎は言った。「……やったもんで、もうそこから出て人とコミュニケーションせなん。練習できとらん分、うまくいかんで、俺もっともっと早くから、人とうまく話せるようにしとかなあかなんだ」
「事実と、気持ちと、捉え方と、これからどうしていく、四つを、自分が肯定できて成長できるように話すようにして」
奈々瀬は高橋に教わった通りに返した。
四郎の後ろ向きな発言は一切ホンキにしない。相手にすると相手の知らずの依存心を助長してしまうから。自分でトレーニングする力だけを信じてあげて。テニスの壁打ちの壁になってあげて。と言われた通り。
「あ、後悔しても、肯定も成長もしとらんな。後知恵言わんようにせな」
奈々瀬はしゃべるのがおっくうだった。頬を殴られるというのは、ここまで制限を受けるのだ。反対にここまで普段何も考えずに、話していたのだ。
「もう寝よ。高橋に悪い」と、四郎は言った。
高橋が「恋人同士の隣部屋は勘弁してほしいなぁ」と言っていたのを、四郎はひしひしと思いだした。ふたりでいるとこんな風に、あれこれ話してしまうのだ。けがの養生中の奈々瀬を休ませてやらなくてはならないのに。
高橋がここ数ヶ月、
「キッチンと食卓は最大四人向け。個々人、または世帯別の部屋は、近接かつ防音。できれば二棟の戸建てまたは隣接した集合住宅」
という条件で物件情報を集めてはハネ、集めてはハネしていたのが、こういうことだったのか……と、四郎はやっと現地現物で確認したのだった。
その要件は、おばさんやおじさんの病人看護や、エグゼクティブ・コンサルタント河上の自宅に住み込み……などの、高橋のこれまでの経験を踏まえているに違いなかった。