キスをしたいな、消せるなら。ーー秋の月、風の夜(36)
☆
ベンチの背もたれに体をあずけ、ぼんやりと高橋は奈々瀬を見た。そして言った。
「キスをしたいな」
高橋がそっと手をさしのべ、奈々瀬のあごを指で撫でた。「さっきの記憶消しのわざ、いろんな局面で、使える?」
「……使えます」
「じゃあ、消せるなら、僕とファーストキスの練習をしよう……」高橋の目が笑っていない。奈々瀬の小さいあごに手をかけたまま、親指で、ぷっくりした桜色の唇を撫でる。奈々瀬が思わず目をつむった。
高橋はそっと、奈々瀬の手をとった。大きな、分厚い手が、ほそい指の華奢な手を包み込む。
奈々瀬の動悸が、激しくなった。大きな、分厚い手。その手から、その手が愛したものの情報や、仕事のとき使う万年筆の情報や、絵筆や車のハンドルなど、いろいろなごちゃまぜのものごとが、奈々瀬の手に伝わってくる。胸苦しい。
包み込む手。
なぐさめる手。
くるり、と回してまた書く万年筆。
コーヒー豆を選り分ける指。
溶く顔料、端の欠けた乳鉢、使い分ける筆のかずかず。
骨をさわる手、無念の念をモノから抜く手。
刻まれる野菜、菜箸……包丁……竹のしゃもじ……フライパンの取っ手。
すーっと撫でていく、手の熱……
まるで蝉が、毎日、毎日、脱皮させられるような成長をくぐり抜けてきた男の手が、奈々瀬の手を握りしめる。
ひとりでずっとずっと、想像を絶するような鍛錬を続けてきた四郎の手とは、まったく違った日々……分野も全く違う、そして、比べることはできないけれど、高橋が通ってきた道も、息を呑むほどすさまじい。
奈々瀬は、伝わってくるそれらの情報群に、ただひたすら、目をつむっていた。ゆれる。気もちがどうしようもなく揺れる。
そして高橋は、奈々瀬を見つめたまま、ほそい小指の付け根に唇をつけた。吐息がかかり、わずかに高橋の口が開き、小指の付け根をついばむように濡らす。舌先がそっと奈々瀬の手にふれ、それから、高橋は丁寧に指でキスのあとをぬぐい取った。
奈々瀬が、目をつむったきり、高橋に握られた手をそのままに、うつむく。
うつむいた奈々瀬に、高橋は、
「消してくれ、今のをぜんぶ」
と、言った。
「え……」
「僕のも、きみのも」
高橋の目は、じっと奈々瀬を見ていた。握った手をそっとおろさせ、高橋は目を閉じた。
「消してくれ……今のをぜんぶ。それから、僕の気持ちと、きみの気もちを消してくれ。僕に、親友を裏切らせないで」
「……いやです」
「じゃあ、僕の気持ちと今の動作の記憶だけでいい、消してくれ」
高橋は言った。「たのむから」
奈々瀬が、両手で顔をおおった。
「……苦しくて、できない」
そっと高橋は奈々瀬の頭に手を伸ばし、撫でて、そして、しずかにしていた。
「酷なことを言った。ごめんね、奈々ちゃん。きみにOKラインの引き方を学習してもらってなかったな、僕がうっかりさんだった。許してくれる?」
「今だけ、このままでいてください」奈々瀬がささやくように言った。「もう二度としないから、今だけ……今だけ、この距離で」
「あと、二十かぞえたらおしまい。できるね」
「……」
高橋はそっと奈々瀬の頭をなでながら、心の中で二十秒を数えた。そして、「はい、おしまい」と落ちついた声で言って、奈々瀬の頭から手を離した。
そのときちょうど、高橋のスマホに、見たことのない番号からの連絡が入った。
高橋は雷にうたれたように、その振動に反応した。
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