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生きる喜び、みたいな初めての感覚。ーー秋の月、風の夜(40)

買ってきた食材を額田(ぬかた)家の台所で冷蔵庫に入れるとき、高橋はちらりと奈々瀬と目があった。入れてある白い大きな箱。
奈々瀬はそ知らぬ顔をする。高橋も何も聞かなかった。

生ハムサラダ。
ごま豆腐。
おひたし。
枝豆。

連休明ければ、すとんと寒くなる前。まだまだ夏めいた日の夕食には、ほしい品々。

ひとつだけ、あつあつのもの……

ぐつぐつ、ぐつぐつと豆腐が煮える。鳥つくね、ゆでたまごがいくつも沈んで、赤こんにゃくが入った、おでん風の寄せ鍋。長ネギがうまそうにくったりとして、春菊ときのこ類も少々。たれは、ごまだれとポン酢と、甘味噌に、濃い目のだし汁を、好きに選ぶ。

「もうさあ、ぶっちゃけ話をしていくしか、ないんじゃないか」

菜箸で長ネギをあらためながら、高橋は疲れきった声を出す。「童貞と処女と恋愛ベタのごった煮って、どういうことになってっちゃうんだよ」
ネクタイは外して、上着も脱いでYシャツを腕まくり。借りたエプロンにYシャツが、割烹料理屋の若旦那よろしく、高橋にはよく似合う。
「身も蓋もない言い方、よしてください……」同じく奈々瀬も、疲れた声だ。「もうちょっとだけ、あこがれのある恋をしたかった……」

四郎だけが黙っている。

「どしたの」
いつもはみせない表情で座っている四郎に、高橋はおそるおそる、声をかけた。

「いや……奥の人と……ご先祖さまんらも……」四郎は、なんとなくぽけーっとした顔で、答えにならない返事をしている。「あんな口の吸い方の練習、生まれてはじめてやん……すごかった……」
「すごい?すごいってエロいってこと?奈々ちゃん、ほんと?」高橋がけげんそうに奈々瀬にきく。「口の吸い方」なんて表現が昔の人すぎるぞ、なんて突っ込みを、しようかと思ったが置いておいた。

「ええと、あのっ……すごくどきどきしちゃって……気もちを持ってかれちゃって、からだの奥がきゅうっとして……おとなの手管っていうか」
「手管という古語が使える十六歳が信じられない、口の吸い方なんて昔すぎる表現の十九歳も信じられないが」高橋は四郎と奈々瀬の意外な共通点に、くすくすと笑った。「さては奈々ちゃん、読みすぎていろいろアレコレ知っちゃってるな?」
「……ええと……そっち系は……いろいろ、反応のようすが、飛び込んできちゃうので……」

「じゃあ僕の身体情報じゃないものも、いっぺんに四郎と共有しちゃったんじゃないの、さっき」
「……たぶん……ええと……そうみたい……」

「あっ、四郎。共有しちゃったのが、ご先祖さまや奥の人にとっては、未知のエロさだったわけ?」

「そうらしい……よかったかも……この人んら、女の人にむごいことすることと、人殺すことしか、知らんでさ……あんな、大切に気もちが燃え上がって、一緒に生きるよろこびみたいな愛しかた、知らんかったでさ……ええ意味で、ショック受けやしたかも……しれん……」

「夢に出ちゃうぞ」
言ってから(また身も蓋もない、ごめん奈々ちゃん)と、高橋は奈々瀬に心の中で言葉を送っておく。それはさすがに読めないだろうが、雰囲気はわかるだろう。謝ってばかりだ。

「……うん……」
四郎がどうにも、ぽけーっとした世界から戻ってこられない。
こんな四郎をはじめてみた、と高橋は思い、奈々瀬と顔を見合わせた。
ふきこぼれそうになる鍋の火を、いったん止めた。ほわぁーーっと、鍋からよい香りの湯気が、いっそう立ちのぼった。



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マガジン:小説「秋の月、風の夜」
もくろみ・目次・登場人物紹介



「最大値の2割」ぐらいで構わないから、ご機嫌でいたい。いろいろあって、いろいろ重なって、とてもご機嫌でいられない時の「逃げ場」であってほしい。そういう書き物を書けたら幸せです。ありがとう!