冷蔵庫の中の白い箱は生デコだった!ーー秋の月、風の夜(47)
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あらかた食事が済んだ頃、台所に立った奈々瀬が高橋を呼んだ。「あの、高橋さん」
「なあに」
「コーヒー淹れてもらうこと、できますか?なんかうまくいかなくて」
「いいよ」
「あ、俺も習う」四郎も席を立った。
台所であれこれ話しさざめく三人を、安春は黙ってみていた。
花火大会の前あたりに、安春がどす黒いほど感じていた、娘の奈々瀬を手放したくない気持ち。
今は、遠い記憶のように薄れている。
みんな大きくなって、大人になって、そして、自分の人生を自分で作っていく……
大人が邪魔をしてはいけない。
コーヒーが来た。
安春は思わず、声をあげた。
「おー、いつもと香りの立ちかたからして違うな」
「教わったから、次から前より上手かも」奈々瀬が台所からそんなふうに言う。
「ハルやヨシは、コーヒー飲めるんか」四郎が弟たちに聞いてやる。
「オレらコーヒー牛乳の方がいい」
「だろうな」高橋は笑って、大きめのマグカップに2つ、蜂蜜とミルクの入ったカフェオレを作ってやった。
お皿とフォークが出てきて、ケーキナイフが出てきた。
「え、なに、ケーキあるの」四郎の声がちょっとだけ、所在なげになる。
「四郎が五月生まれでしょ。高橋さんが六月生まれでしょ。前松本にきてくれたとき、お誕生祝いしなくて、バタバタだったから」
奈々瀬が冷蔵庫の中の白い箱を、うれしそうに出してきた。
「あけまーす」
「おー!!すげえええ!」ハルが騒ぐ。
大粒のいちごがいくつも乗った、白い滑らかな生クリームのデコレーションケーキ。人数が多いので、大きめ。
四郎も高橋も、大きなデコレーションケーキを見ていた。
「誕生日のケーキだ」高橋は微笑した。「王道中の王道って感じだ」
「ここのケーキのイチゴって、自分とこの農園のなんですって。朝摘むんですって」奈々瀬はそういいながら、1と9と2と3の数字ロウソクを、順番に刺していく。
四郎は黙って、奈々瀬の細い指が19のロウソクに火をつけるところを見ていた。
高橋はともかく、四郎には生まれてはじめての、誕生日のケーキなのだ。
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マガジン:小説「秋の月、風の夜」
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