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あなたの一万時間を、何に使うか。「人生86年時代」の、 ”再学習” 時間術。

たかてる(高橋照美)です。
今日も、僕が聞き書き入力して、四郎がそばで僕と対話する役。

少し昔の推理作家「エラリィ・クィーン」は、いとこ同士のフレデリック・ダネィとマンフレッド・リーのコンビです。
四郎の小学校の学級文庫に、なぜだか誰かが持ってきた、エラリィ・クィーン「国名シリーズ」の一部が提供されていたそうで、たまーに話に出ます。
「僕らもそれに近い形で共同作業ができたらな」なんて話をすることも。


noteの5ヶ月250時間

(期間)5ヶ月 × (ひと月)25日 × (一日あたり)2時間 = 250時間

2017年6月30日に「高橋照美」のアカウントを作って以来、我々二人がnote上で消費した、執筆時間の概算が上記です。
大半は、嶺生(ねおい)四郎が「高橋照美」のペンネームで執筆した物語です。( ← ややこしくてすいません。開始当時、奴は対人恐怖の緩衝材として、僕の名前を借りてなら書ける……なんて口走ってたものですから)

およそ、技術熟達までの時間は「約一万時間」と言われていて、その1/40量に達したことになります。
上記を淡々と40クールやれば「一万時間の熟達」に至る、というわけですね。途中で投入時間とnote接触頻度をドラスティックに組み替えれば、意外と完遂が速まったりもしそうです。


こういう「よくなりかた」をしました

250時間の投入でもって、四郎はたとえば

・「自分が何をしたいのかがわからない」状態を脱し、「なんとなくこんなことがしたい」と語れる状態に戻った

・開始時点では「伝えたいことが何もない、伝わるとも思えない」という感覚が強くあったが、累積100時間を超えた時点で、かなり薄らいだ

・開始時点ではwordファイルを七名ほどの読者さんに読んで頂くリハビリ状態であったものが、現時点で他のnoterさん約170名弱にフォローして頂きながらの執筆ができている。SNSという間接的な「人の輪」に、過緊張や不安感・恐怖感を覚える状態から、段階的に脱している

~こんな快復をとげています。

(注:note投稿作業のみを実践していたわけではなく、我々は「睡眠」「運動」「食事の質」「人との過ごし方」に同時に注意を払いました。

・徹夜をせず、できるだけ6時間睡眠
・軽く汗をかく運動や、歩くことなど
・糖質糖分油脂の過剰摂取がないようにし、根菜類の自炊を多く含むビタミン・ミネラル摂取
・感覚や感情の言語化や捉えなおしを、信頼できる友人に語り、聞いてもらう。極力、大勢の中で過緊張状態にならないようにする。仕事は残業10%を超えないよう根回し、得意業務の交換等で調整する。害のある人間関係に触れ続けないよう、多忙を理由に距離をとる

~を心がけていました。)

仮に「虐待の痕跡」を

「望まない強制学習による、反射的な反応回路・身体記憶の構築・蓄積」と捉えるなら、このケースは

100時間のnote記事投稿作業で「あきらめ・無気力・特定の心理的ブロック」のような状態が改善し、
250時間のnote記事投稿作業で、「いくぶん建設的な自己像の再構築」や「ある程度のスキル獲得」がなされた。
といってもいいのかもしれません。

何を言いたいかというと、「本人が望まない不本意な状況は、適切な生活設計と、学習のしなおし = 再学習 によって、脱出できる」というモデルケースに再現性を持たせることは、少なからず社会的に意義を持つだろう、ということです。


不本意な状況を、仕切りなおす「自分の整え」

虐待に限らず、現代日本では「本人が望まない不本意な状況」は、あんがい至る所で人を苦しめています。

たとえば、リストラ。パワハラ。暴力被害、DVやレイプ。離婚。パートナーや親しい家族との死別。継続的なストレスによるメンタル症状の出現など。


それが「日にち薬(ぐすり)」という昔ながらの言葉によって、どれだけ渦中でうずくまる人をなぐさめるだろうか。そんなことを考えてもみるのです。

さらに少しだけ、薄皮をはぐような快復がすすんだならば。
能動性自律性をもった「目的・目標」の風景を自分に対してゆるすことによって、もう少し元気に。もう少し生き生きと。そうして進んでいけるなら、とても人を励ますことになるだろう。そんなことを考えるのです。

グレーゾーンで「なんとなくの不調・不全感」をかかえつつ、仕事に子育てにきつい思いをしている人にも、このことは少なからずあてはまるでしょう。


何度かの ”再学習時間” というとらえかた

「時間の使い方」は、以前は

スケジュール術や時間管理術。と、
人生計画やライフスタイル論や自己啓発。と、
いくつかにわけられた潮流の中で語られることが多かったかもしれません。

これを仮に、

「人生86年時代においての、何回かの ”再学習時間” 投入による、自分の整えなおし」

と捉えてみるのはどうでしょうか。

たとえば、

乳幼児期から思春期前までの時間。
十代から高等教育終了までの時間。
社会人初期から中期。昇進や独立による中期から後期への時間。
異動、転職、退職、結婚などの人生の転換点できりかわる時間。
パートナーや家族の看病や出産・子育てなどで大きく配分が変わる時間。
自分自身のケガや疾病により大きく変わる時間。

ポール・トゥルニエという人が「人生の四季」ということを言っていまして、人生の春や夏にその人が消化しそこねたことがらは、その人の人生の秋や冬に、大きく影響を及ぼす……という話をしています。今よりもっと人生がシンプルだった時代の提言です。

すると、現代日本では、六~八期ほど切り替わっていく人生の時期、おりおりに、よくよくその時期の課題と向き合い、消化していくことで、次の実りを大きく豊かにもできる可能性があります。それは失意の課題であれ、ザセツを越えていく課題であれ、挑戦課題であれ。

そこでは

「自分の人生の、その時期に有用な新しい学習を取り込み、同時に、自分に不本意な作用を及ぼす古い学習を除去する」

このことが起こっている。と、意識的にとらえてみると、

漠然とした閉塞感・よくわからないものに流されるような不安感が、ゆるやかに抜けていくこともあるのではないでしょうか。

「自分自身の人生には、六回か七回、学習の除去と再学習の投入とを必要とする特定の時期がある」……と捉えてみると、たとえば

中高年高齢者の方が感じる「若い人に対する世代間ギャップ」に、疎外感や悲しみ、憤りが混じりこむ要素が、わずかにやわらぐことも、あるのではないでしょうか。
子育てを主軸とするために、キャリア路線からの転換をした女性が「置いてけぼり感」を感じすぎたり、「再就職に関するハードル」を自分自身の制限から高く感じすぎたりしているところへのサポートの出し方が、よりかゆいところに手が届くこともあるのではないでしょうか。


再学習の方向性設定に役立つ、いくつかの質問。

・自分が死ぬとき、誰にかこまれ、どう見送られたいだろうか。
・「どういう人だった」と記憶されたいだろうか。
・今の仕事、今の人間関係、自分自身の取り組みなどが、三ヶ月後死ぬとしたら満足できるものだろうか。二年後にはどうだろうか。五年後にはどうだろうか。

・今、「やりたいことがわからない」としたら、何歳までに新鮮な感情とともに「これがやりたかった」とわかっていたいだろうか。
・子供の頃好きで、「生計業務(ライスワーク)」に主軸を置くために生活の外へ追いやってしまったことは何か。
・いずれ「生計業務(ライスワーク)」と「生涯業務(ライフワーク)」をパラレルキャリアとして追いかけるとしたら、どのようなデザインが自分らしいだろうか。



有料部分には、高橋と四郎のいくつかのQAを、ご参考までに書いておきますね。


こんな自問自答でした。

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「最大値の2割」ぐらいで構わないから、ご機嫌でいたい。いろいろあって、いろいろ重なって、とてもご機嫌でいられない時の「逃げ場」であってほしい。そういう書き物を書けたら幸せです。ありがとう!