その時、全財産は600円だった。
2017年のあの夏の日をボクは生涯忘れないだろう。
その夏、滋賀県と秋田県を2往復した。
フラフラになって軽自動車のドアを閉めたボクに残ったのはたったの600円。
2012年からの5年間、小さな失敗が積み重なり全てを失ったボクは生まれ育った故郷に戻ってきた。
一体何がいけなかったんだろうな。
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新卒編
2012年、大学を卒業したボクは業界ではそれなりに名の通った企業に就職した。
周囲はボクとは正反対に高学歴な仲間ばかり。
多少のコンプレックスもあったが持ち前の意地でなんとか食らいついていく日々だった。
大学では情報処理を専攻していたので、仕事もソフト開発の分野になるかと思いきや、配属は製品の管理担当だった。
開発は高度な知識や技術が要求され、とてもボクじゃついていけなかっただろうなと今は思う。そもそも管理だって相当の知識が必要だ。
しかし、身の程を知らない当時のボクはそれが不満だった。
大した実力もないのに自分を過信しすぎている…それが失敗の始まりだったのかもしれない。
当時、2012~2013年は「独立しよう」「フリーランスになろう」と言ったことが叫ばれ始めた時期だった(ような気がする)。
「YouTubeで稼ごう」だとか、「好きなことで生きていこう」だとか書いた本が書店にたくさん並んでいた(YouTuberって表現はあまり見なかったかな)。
その時期、ボクはAndroidアプリの個人開発を始めた。そしてたまたま最初にリリースしたアプリが3万ダウンロードくらいされた。
当時はアプリの黎明期。出すアプリは大体ダウンロードされて広告収入もそれなりにあった。
この成功体験がボクを狂わせたのかも知れない。
ボクはすっかり「個人アプリ開発で食っていけるかもしれない!」と思いこんでしまった。
社会人2年目ともなると仕事が楽しくなくなり、朝起きるのも出社するのも辛くなっていった。
社内のカウンセラーに相談したり、社外の知り合いに相談したりもするが心は晴れないままだった。
この頃から仮病で会社を休んでアプリを開発したりしていた。今思うと本当にクズだと思うが、当時はそうして心を守っていたのかも知れない。
「会社をやめたい」
必然的にこんなことを毎日考えるようになった。
そんな時、ボクはとあるスポーツと出会う。日本に入ってきて間もない発展途上のスポーツだった。
スポーツをするなんて高校以来かもしれない。でも少しずつ上達するのが楽しくて会社が終わるとスポーツができるジムに毎日通った。
初めてそのスポーツの草大会に出場したとき、3位になった。
もしかしてこのスポーツに何らかの形で関わって生活できるのはないかとも考えるようになった。
もちろん勝算は何もない。
でも謎の自信に満ち溢れたボクは2014年、親にも内緒で最初の仕事を辞めた。
地獄のフリーランス編
そしてここから地獄のような日々が始まる。
仕事を辞めてからは毎日アプリ開発をしながら、ジムに行ってスポーツに取り組んだ。
自分ではフリーランスのつもりだったが開業届も出すわけでもなく、営業をするわけでもない。固定客もいない素人のエンジニア。
ただ作りたいアプリを作るだけの日々だった。
ここまでお読みいただいている方がいれば、この後は想像に難くなくすぐに生活費が底をついた。
ボクはパートを探すことにした。
好きな仕事をするために前職を辞めたのにまたどうでも良い仕事することになるとは、全く辻褄が合わない話である。
しかし、ボクには生きるためのお金が必要だった。
この時、保険だか住民税だかが払えずに「役所に財産を差し押さえられる」という経験もした。
口座が急に0円になっていて心底驚いた。
ボクはビジネスホテルの清掃のパートに就いた。
リーダーが厳しい女性の方でダメ出しもキツかったが、上手くできたことはしっかり褒めてくれた。
ベッドのシーツ張りや客室清掃など何故かその仕事にやりがいを見出し始めていたが、パートの収入ではその月の生活費は賄えなかった。
次にボクはオーダーメイドの機械を開発する従業員数名の会社を紹介してもらい、ホテルの清掃の傍ら通うことになった。
仕事内容は機械の組み上げである。高校時代に心得があったので怒られながらもなんとかやっていけた。
ここで問題になるのが働いている時間である。
当時のシフトはこんな具合だった。
月 ホテル清掃 9:00~15:00(その後ジムで練習)
火 機械組み上げ 8:30~17:30(その後ジムで練習)
水 ホテル清掃 9:00~15:00(その後ジムで練習)
木 機械組み上げ 8:30~17:30 ジムの清掃 23:00~01:00
金 機械組み上げ 8:30~17:30(その後ジムで練習)
土 ホテル清掃 9:00~15:00(その後ジムで練習)
日 ホテル清掃 9:00~15:00(その後ジムで練習)
あれ、アプリ開発は?
休みは?
これだけ働いても当時乗っていたバイクのローンが払えず、クレジットカードも止められた(いわゆるブラックリスト入り)。
当時付き合っていた彼女からは「収入が不安定な人とは付き合えない」と別れを切り出された。
生命保険を解約し、いつからか捨て身で生きるようになっていた。
そう。ボクの人生はすっかり狂ってしまっていたのだった。
「こんな生活いつまで続けるのか。もう死んでしまいたい」
いやいや、これは誰のせいでもない。
すべてが自分で選択した結果。
「こんなのが自分の人生なんだろうか…」
ポツリと呟き、情けなくて泣いてしまった。
しかし、こんなドン底にいたボクを拾ってくれた場所があった。
それはスポーツの練習で通っていたジムだ。
ボクは2015年にホテルの清掃と機械の組み上げを辞め、個人事業主(業務委託スタッフ)としてそのジムに務めることになった。
なぜ個人事業主かというと、経理を覚えて独立する時の負担を軽くするためとのことだった。
そこで発展途上のスポーツのインストラクターとしてたくさんのお客様にアドバイスをした。
店長はとても厳しく、めちゃくちゃ怒られながらも「客商売」ということの多くを勉強させてもらった。
そして2017年、ボクは独立を言い渡されてジムから追い出されようとした。
独立再チャレンジ編
ボクが取り組んでいたスポーツのとあるブランドが「代理店の権利をジムに譲渡したい」と提案してきた(道具を海外から日本に輸入し、国内に販売する権利)。
実はそのジムが主としていたスポーツは別にあり、ボクの取り組んでいたスポーツはそのジムの「オマケ」だった。
きっと店長は前々から「オマケ」を辞めたいと思っていたんだろう(ボクが入る前から赤字部門だったらしい)
だから、ブランドの代理店の権利をボクに渡し独立させるという名目のもとで、赤字部門を切り捨てようとしたんだと思う。
ブランドの譲渡を受けるにはそれなりにお金も必要だった。
もちろん独立準備中の人間に給料は出ない。しかしボクには貯金が1円もない。本当に1円たりとも無かった。
程なくして、ボクは家賃が払えなくなった。
大家さんには怒られたが慈悲で支払いを待ってもらえることになった。
前途多難だが、やる気だったボクはここから金策に走ることになる。
あたりまえだがローンが払えず、クレジットカードも止められているクズに銀行はお金を貸してくれない。
すぐに断られた。
ならばと思い、知り合いの投資家に相談をするためなけなしのお金をはたいて東京へ。
しかし、「やめておいた方がいい」と至極まっとうなアドバイスをもらっただけだった。もちろんボクは聞く耳を持ちはしなかった。
万策尽きたかと思ったときに、その頃たまたま知り合ったとある方が「200万円までなら貸すよ」と言ってくれた。
良かった。首の皮一枚つながった。
安堵するボクに店長からメールが入った。
モタモタが目に余ったのだろう。「早くしないとこの件は白紙にする」といった旨だった。
「お金の算段がついたので今夜話をさせてください」と東京から帰る早朝の電車の中から連絡をした。
東京から帰った日の夜、ボクはジムで店長を待っていた。
そこに一本の電話が入る。
ブランドの代理店の権利を譲渡したいと提案してきた方からだった。
電話に出ると信じられないことを説明しだした。
要約すると、
・譲渡予定だったブランドが他のブランドに買収された
・今後、買収されたブランドの製品を製造するか分からない
・こんな未来が見えないブランドを渡せない
・この話は白紙にしてほしい
とのことだった。下手に代理店の権利を譲渡して何かあったときに大変とボクとその方自身を気遣っての判断だったんだろう。
海の向こうで、ボクの力が及ばないところで、大きな変化があった。
電話を切った時、今までの出来事が一気に頭の中を駆け巡った。
ボクは神に祈ったりはしないが、この時ばかりは目に見えない大きな力の存在を信じざるを得なかった。
それが全力でボクを引き止めている。
「やめておけ」と。
確かに。幸いにしてボクはまだ1円たりともお金を借りていない。
本当はもっと早く決断しておくべきだった。
そしてボクの中で何かが「プツン」と切れる音がした。
ボクは電話を手に取る。最初に電話したのは家族だった。
「そっちに帰ることにした」
これだけ伝えた。
不思議なことにここで僕が感じたのは他ならない「安堵」だったのだ。
店長は電話に出なかったので今起こった事とこのままスタッフを続ける意思は無く、仕事を辞める旨をメールで伝えた。
それが2017年7月3日のこと。
ここからの行動はジェットコースターのように速く急だった。
まずは引っ越しの段取りだ。お金は無いので引っ越し業者は頼めない。
家財道具をほぼ売り払ってお金を作った。
大好きだったバイクも売った。
7月の中旬に地元の企業(秋田)の面接を受けに帰る際、軽自動車に荷物の半分を詰め込んだ。
再び滋賀に舞い戻り、大好きな人達と最後の酒を飲み交わした。
面接受けた企業(現在の職場)からは内定の連絡がきた。
そして、2017年7月24日。誰にも見送りを頼んでいないので、朝日だけがボクの出立を見送った。
「さようなら」
約5年住んだ滋賀を去った。
残った半分の荷物を軽自動車にギッシリと詰め込んで。
軽自動車は運転席だけが空いている状態だった。
そして秋田にたどり着いた時、ボクの全財産は600円だった。
このことを毎年夏がやってくるたびに思い出す。
結局、この5年間は何だったのだろう。
ボクは何一つ達成することができなかった。
ヒットするアプリを開発したわけでもない。
夢中になって取り組んだスポーツは選手として活躍することもなく、ブランドを展開することもなかった。
財産を差し押さえられ、クレジットカードの信用情報は傷つき、
独立にも2回失敗し、お金も無く、大好きな人達とも離れた。
ボロボロで惨めだった。
ボクは全てを失って丸裸でリスタートした。
さいごに
壮絶な失敗から間もなく4年。
この間、多くのことを経験した。
・お金の失敗を反省し、軽視していたお金の勉強をした。
・自分が代表になってスポーツのチームを2つ作った。
・地域のスポーツを活性化する役員になった。
・この失敗を地元の中学校で公演した。
・会社で働きながら、空いた時間でやっぱり大好きだったプログラミングで小さなサービスを作った。
・岩登りを再開し、登山も始めた。
・再びクレジットカードも作れた。
・そして、無理だと思っていた結婚をした。
なんだ。意外とちゃんとできているんじゃないか?
あの頃の全ての経験が今生きている。
あの失敗があったから、今のボクがある。
失われた20代の後半は決して無駄ではなかった。
と、30歳を過ぎたボクは妻とともに拓いた、田んぼの真ん中の畑に佇んでそんな昔話を思い出すのであった。
おしまい
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みなさんはじめまして。TKサンダーです。
ここまで読んでくださった物好きなあなた。本当にありがとうございます。
これはボクが経験した小さな失敗が積み重なり、やがて大きな失敗となってしまった本当のお話です。
世の中にはボクみたいな失敗をするアホなやつもいるんです。もしあなたが落ち込んでいるなら元気出してくださいね。
失敗しないためには、早めの判断が一番です(もちろんやりたいことにはまずチャレンジしたほうがいい!)。
「ヤバくなりそうだな」という兆候に早めに気がつきましょう…笑
もし失敗してもいつからだってリスタートできます!ボクは今幸せです!
再び立ち上がって肩の力を抜いて歩きはじめましょう~。
noteの最初の投稿が重すぎるかなと思ったんですが「#あの失敗があったから」という丁度よいテーマだったので、思わず書いてしまいました。