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憲法(基本的人権の概論)


「基本的人権」という用語の意義


 「基本的人権」とは、信教の自由や言論の自由等の「個別的人権の総称」である。そこで、基本的人権とは具体的に何かとの本質的な問いが生じるが、それは人権思想の歴史的遷移や人権カタログ自体の歴史的変動などのために統一的な答えを提示するのは難しい。

人権の歴史的遷移

1 人権の萌芽は英国からのマグナカルタ(1215)にあるとされ、国王の王権を制限し諸侯の既得権などを保障したところに歴史的意義があった。その後の権利請願(1628)や権利章典(1689)を経て、国民への課税や人身の拘束は議会の制定する法律によることを確認した。権利請願と権利章典はピューリタン革命前後で異なっており、ここでは内容は同旨として扱う。
 マグナカルタから権利章典に至るまでに確認された「人権」は、英国が歴史的に確認してきた人権で、封建的な性質を備えた国民権と表する方が適切であった。この「人権」が今日あるような普遍的な人権となるには、ロックやルソーによる自然権思想や社会契約論による基礎づけが必要だった。
 すなわち、これらの社会契約論が国民権から封建制を除き、自然権思想が国民権に普遍性を与えたのだった。
2 人権宣言の誕生によって、英国で芽吹いた人権思想は開花する。1776年から1789年の間に、米国ではアメリカ諸州憲法において、社会契約論の影響のもと人権を自然権として宣言し、フランスではフランス人権宣言(1789)に人権の基本理念を宣言している。
 米国と仏蘭西の人権宣言には性質上の差異が見受けられる。① まず、米国の人権宣言は英国の伝統的な諸自由を自然権思想によって根拠づけ直したのに対し、仏蘭西の人権宣言は新たに抽象的な人権のカタログを構成した点が挙げられる。② また、米国は立法権をも拘束する人間に固有の権利としての人権を発想したのに対し、仏蘭西では法律は一般意思の表明である、すなわち「法律=人権」と理解する立法権優位の位置付けのもと、人権は主として行政権の恣意を抑制するものとして理解された。
3 人権宣言の普及は、自然権思想に基礎付けられたフランス人権宣言の示す「人権」に対する、ヨーロッパ諸国の国民の権利としての「人権」の相剋によって進展した。そして、法律によって保障される国民の権利としての人権は、第二次世界大戦でヨーロッパをナチズム・ファシズムが闊歩した苦い記憶を経て、従前の人間が人間であるゆえ論理必然的に享有する自然権としての「人権」に転換した。
 つまり、米国や仏蘭西で誕生した自然権思想に基礎付けられた「人権」は、ヨーロッパで普及する過程で議会への強い信頼を背景に法律による国民権の形をとり、それゆえ生じた歪みが第二次世界大戦を引き起こしたことへの反省として、当初の自然権思想的な「人権」に回帰したと言える。
 人権宣言の社会化に目を向ければ、上記のヨーロッパにおける「人権」の寄り道は不利益ばかりでなかったことがわかる。というのも、18世紀に成立した自由権を中心とした人権が、法律により国民の権利として保障されると構成したことで、社会的弱者保護のために国家が積極的に介入して人権保障に資することを内容とする社会権という考え方が誕生した。この社会権の考え方は、今日でも財産権などの領域で広く取り込まれている。

人権の観念と内容(抽象的又は具体的な類型化)


第十一条 国民は、すべての基本的人権の享有を妨げられない。この憲法が国民に保障する基本的人権は、侵すことのできない永久の権利として、現在及び将来の国民に与へられる

1 観念

ア 固有性

第九十七条 この憲法が日本国民に保障する基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であつて、これらの権利は、過去幾多の試錬に堪へ、現在及び将来の国民に対し、侵すことのできない永久の権利として信託されたものである。
 
 「人権」という恩恵は、自然から信託ないし付与されたもの(アメリカ独立宣言)であり、自然によって与えられ(11条)たものであるという理解を、人権の固有性という。

イ 不可侵性
 また、人権は「侵すことのできない(11条)」権利と宣言されており、これは公権力に対して侵されないことを意味していると考えるのが、憲法史の観点から適当と考えられる。
 しかし、人権の不可侵性は、人権の絶対無制約を意味するとするのは早急で、人権は社会的なものであるから一定の限界を有する(「公共の福祉(13条)」による制約)。

ウ 普遍性
 全ての国民は、「国民は、すべての基本的人権の享有を妨げられない(11条)」のだから、人種や身分等により区別されることなく、普遍的に人権を享有する。

2 内容

ア 自由権
 「国家からの自由」と表され、個人の意思決定と活動の自由に、国家が干渉することを排除することを内容とする。
 自由権はさらに精神的自由権、経済的自由権、人身の自由に分けられる。また、精神的自由権の限界に基づく区別として、内面的精神活動の自由と外面的精神活動の自由といった区別もある。

イ 参政権
 「国家への自由」と表され、自由権の確保に資する。さらに、自由権の確保に資する受益権(国務請求権)という分類もある。

ウ 社会権
 「国家からの自由」と表され、20世紀に西欧で発展した。社会的弱者保護のために国家が市民社会に積極的に介入することを内容とする。
 憲法の人権体系が自然権思想に基礎付けられることから社会権を条文から直接導くことはできないが、法律によって具体化されることで個別具体的な権利として権利の実現を裁判所に請求できる。

内容による分類の相対性
 「知る権利」は、単に情報の受領を妨げられないという自由権的側面に加えて、国家に対して公開を請求するという国務請求権的(又は社会権的)側面も有する。
 「生存権」も、救貧政策を国家に求めるという社会権的側面に加え、救貧措置の受領を国家によって制限されないという自由権的側面も有する。そして、生存権も自由権的側面の限度で、憲法を直接の根拠に権利の実現を裁判所に請求することが認められる。
 つまり、自由権と社会権は国家に対する不作為請求権と作為請求権という性質の違いがあるが、一つの人権カタログの中に併存していることもあり、自由権ないし社会権の分類は相対的なものである。

3 制度的保障


 人権の類型化において、各人権規定を自由権ないし社会権に類型化してもなお、政教分離(20条3項)や学問の自由(23条)のように制度的保障として整理される人権規定もある。
 制度的保障とは、憲法の価値秩序の本質的核心が法律によって侵害されることのないように置かれた規定である。
 ここで、政教分離(20条3項)を制度的保障と捉えるか、自由権規定として捉えるか問題となる。
 津地鎮祭事件において、高裁判決は「信教の自由(20条2項)は政教分離(同3項)なくして完全には保障されない」との立場から、政教分離規定を自由権規定として捉えていた。しかし、最高裁は、分離規定(制度)と信教の自由(自由権)とを峻別した。
 そして、分離規定には一定の制限があることを前提に、20条2項(自由権)と3項の「宗教活動」の意義を別異に解釈し、3項のそれを限定的に解釈した。

第二十条 信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない。
②何人も、宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加することを強制されない。
③国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない。

人権享有主体性


1 人権享有主体性を整理する意義

 憲法学それ自体は、国家と私人の権利利益が衝突する場面を念頭に、これらの利益調整を理論的に整理することに主目を置く。つまり、憲法学は問題となっている対立する権利利益の内容及び性質等を比較衡量し、又は国家の私人に対する権利利益の侵害の許容性を審査基準という尺度によって測る作業を主に扱っている。
 そこで、憲法学における「人権享有主体性」とは、紛争の対象となっている権利利益の主体についての分析であって、そもそも当該主体が問題となっている権利利益の救済を主張する資格を有するのか、仮に権利利益の享有主体性が認められ資格を有するとした場合に、それが完全なものなのか部分的なものにとどまるのか、その限界の画定はどのようにされるのかといった問題に取り組む分野である。そして、人権享有主体性の熟考により主体の権利利益に対する結びつきの強弱が明確となれば、この一事は対立利益との利益衡量において一考慮要素となる。すなわち、権利利益との結びつきが強まるほど、対象となる権利利益を保護する方向性で法理論を構成することになる。
 したがって、紛争の主体に注目して、その主体が問題となっている権利利益の救済を主張する資格をどの程度有するかは、紛争解決の局面での判断枠組み及び審査基準の設定に資する。

2 人権享有主体性が問題となる場面

ア 天皇
イ 法人
 法的技術によって権利義務の主体となり得る法人にまで人権の享有主体性を認める異ことができるか問題となる。基本的人権は個人の権利として醸成してきた歴史的経緯に基けば法人にこれを認めることは適切でないようにも感じられるが、法人の活動が自然人を通じてなされ、その効果は究極的に自然人に帰属することを考慮すれば、権利の性質上可能な限り法人の人権享有主体性を認めるべきと考えられるし、それが今日の一般的な見解である。
 ここで、法人の巨大な経済力や社会的影響力によって個人の人権が制約されうることとなるから、特に経済的自由権や財産権、精神的自由権のうち政治活動の自由などにおいて、法人の人権享有主体性に一定の限界を画することが必要となってくる。

税理士会政治献金事件(36)

群馬県司法書士会震災支援寄付事件

八幡製鉄事件(8)

1 問題の所在
 法人の活動内容(範囲)は基本約款(定款など)によって定められる(民法34条)から、法人の活動が法的権利義務の範囲に属するかは、① 基本約款に照らして判断し、② 基本約款の範囲内であっても法人の人権享有主体性の観点から約款の定め自体が認められないとの判断もありえる。
 この点、①は専ら法人の活動と基本約款の内容の距離に関する問題であって、②は対象となっている権利利益に対する法秩序との適合性の検討を問題としていると考察できる(税理士会政治献金事件を参照)。
2 税理士会政治献金事件
 税理士会が決議によって特定の政党に会員から徴収した金員を寄付することを決定し実行したが、このような税理士会の活動が税理士会の目的の範囲に属するか問題となった。
 最高裁は、いかなる政治団体に政治献金をするかどうかは投票の自由と表裏を成すもので、会員各人が個人の自由な意思決定によってするものであるから、団体の多数決原理によって実行されるべきものでなく、税理士会もとい法人の権利義務の範囲として認められない性質のものであるとした(上記の②のレイヤーの問題と扱う方が適当)。
3 群馬県司法書士会震災支援寄付事件
 司法書士会が震災支援寄付金として会員から徴収した金員を寄付することを決定し実行したが、このような司法書士会の活動が司法書士会の目的の範囲に属するか問題となった。
 最高裁は、震災支援寄付活動を「司法書士業務の円滑な遂行による公的機能の回復」を目的とすると捉え、司法書士会の目的の範囲に属すると判断した。
 もっとも、反対意見として額の大きさ(3000万円)を指摘するものがあった。これは、寄付行為が法人の目的範囲内の活動であるとしても、構成員に過大な負担を課すものであり、そのような構成員の犠牲を強いてまで団体の活動を認めるべきではないとの価値判断が読み取れる。というのも、そもそも法人に人権の享有主体性を認めるのは、それが究極的に構成員たる自然人に帰属するという理解が前提にあるからである。
4 八幡製鉄事件(8)
⑴ 本件の最高裁判決は、上記①のレイヤーにおいて一般論を提示した点で意義深い。法人の活動は基本約款に定められた範囲を目的の範囲内の活動として法的に正当化されるところ、基本約款の内容と実際の活動実態がどの程度の乖離まで許容されるのか不明確であった、すなわち、基本約款に掲げられている内容と完全な一致を求めることも第三者の予測可能性としては有益であるが、法人の活動が著しく制限され、法人に自然人と同様の権利能力を付与した制度目的を実現できない。そこで、最高裁は、「会社は定款に定められた目的の範囲内で権利能力を有するが、その目的遂行のために直接的又は間接的に必要な行為であれば、全てこれに包含される」とし、「この必要性については、その行為の客観的性質に即し、抽象的に判断されなくてはならない」と基本約款の内容と会社の活動実態との距離について一般論を示した(八幡製鐵事件)。
⑵ 本件で会社が政治献金によって営業目的を達成することは間接的に必要な行為として認められるのは判例のとおりであるが、これについて上記の二事件についても検討したい。
 36事件は、税理士会による税理士実務に配慮を求めるための政治献金による支援は税理士業務という法人の目的を達成するのに少なくとも間接的に必要な活動と言える。また、群馬県司法書士会震災支援寄付事件において、寄付行為の間接的な必要性は判決文中で認められている。しかしながら、36事件は政治献金という行為の性質から、これが個人の自由な意思決定によるべきとして法人の目的の範囲外とされたことで、後者の判決と結論を異にした。
 ところで、36事件と8事件は法人による政治献金という点で事案類型的には共通点を見出せるが、結論を合憲と違憲で異にしている。36事件は税理士会法人が強制加入団体で様々な思想良心をもつ人々が集まることが想定されることに注目し、そのような性質の法人が参政権と表裏をなす政治献金の決定を多数決の原理によってすることは、法人の性質上許容すべきでないとの判断がなされたと考えられる。そういう点で、この考慮は②のレイヤーに関する問題である。

ウ 外国人
 外国人についても、国際人権規約及び98条2項(国際法規の遵守)や、人権の固有性(11条)から、日本国においても性質上可能な限り保障すべきであるとするのが通説である。ここで、なぜ性質上可能な限りとの留保が付されるかは、人権のうち社会権は国家による保障であることから本国で保障を受けるべきとの考えや、参政権について国民主権は日本国民による行使を前提としているなどの種々の理由がある。
 そうであるとしても、自由権については、人権の固有性や不可侵性と強く結びつき外国人についてもこれを広く保障するべきである。だからこそ、その自由権の確保に資するための参政権について、参政権の本来的意義からすれば外国人にも広く保障するべきであるが、憲法の諸原理に則せば自由権とパラレルに保障することが許容できないことも多々あり、そういった場面で外国人の人権保障について問題を生じる。これ以外にも、社会権や出入国など様々な場面で外国人の人権享有主体性は問題となる。

マクリーン事件(1)

1 問題の所在
 マクリーン氏が在留更新を法務大臣に申請したが、在留中の政治活動を理由に更新拒否処分を受けた。もし、外国人にも政治活動の自由が(全面的に)認められるのなら、憲法で保障された権利を行使したことを理由に在留更新不許可の不利益処分を受けたことになり、その点で法務大臣の裁量権の逸脱・濫用として本件不許可処分が取り消される可能性がある。
 そこで、外国人に政治活動の自由が認められるか、認められるとしたら限界はあるのかが争点となる。
2 外国人にも98条2項(国際法規の遵守)や、人権の固有性(11条)から、日本国においても性質上可能な限り保障すべきである。
 もっとも、外国人の本国における活動は在留制度の枠内で保障されているのであるから、上記保障は在留更新の際に消極的事由として斟酌されないことまで保障したものではない。したがって、本件処分に法務大臣の裁量権の逸脱・濫用は認められない。
 思うに、日本国の憲法秩序に異質の契機を持ち込む(例えば、法人や外国人)場合、裁判所はこれらを規定する根本原則が前提にあり、問題となっている活動がこの根本原則に適合しているかを第一に検討し、その後に当該根本原則に適合しているとしても原則自体が憲法秩序に照らして妥当性を欠くかどうかを二段階で審査していると考察できる。本件では、会社の活動に基本約款があるように、外国人の活動には在留制度という枠組みが存在し、この枠組みとの関係を論じたと見ることもできる。

指紋押捺拒否事件(2)

1 指紋を採取されない自由
⑴ 指紋は、性質上万人不同性及び終生不変性をもつので、採取された指紋の利用方法によっては個人の私生活上の自由が侵害される可能性がある。したがって、個人の私生活上の自由の一つとして、何人もみだりに指紋の押捺を強制されない自由を有する(13条)
⑵ そして、外国人はこのような自由権を、外国人であることを理由に日本国で憲法上の保障を受けられないとする合理的な理由はない。
2 公共の福祉による制約
 上記のような権利であっても、公共のため必要がある場合には相当の制約を受ける(13条)。在留制度(=公共の福祉)において指紋押捺によって在留外国人を把握することは、制度の目的及び手段の相当性が認められるから合憲である。
 思うに、公共の福祉とは人権制約を正当化する一般的な概念であって、本件のように外国人が紛争の当事者となっている場合には在留制度が持ち出されることはあるし、これ以外にも対立利益や様々な法制度が持ち出される可能性がある。

エ 公務員
 人権享有主体性によって人権の限界を画する文脈の中での公務員についての議論は、以下の公共の福祉等による人権の限界画定の議論と共通する点を多く含む。よって、公務員の人権については以下に譲る。

人権の限界

 人権は個人に保障されるものではあるが、個人が社会生活を営む以上は社会との関係で制約されることがあるのは自明である。
 憲法は「公共の福祉(13条・22条・29条)」という一般的な概念による制約を規定している他、判例法理から特別な社会的接触に入ることで形成される「特別関係(例えば、公務員)」や「私人間(例えば、赤旗事件)」などを制約の根拠として導くことができる。

1 公共の福祉

⑴ 公共の福祉による「制約」は、制約の根拠の所在から考察して外在的制約と内在的制約に分類できる。外在的制約は、人権の外部に存在する国家の秩序等を根拠に人権制約を肯定する論理である。内在的制約は、人権の内部に論理必然的に制約が存在しており、あらゆる制約は自由権の衝突の調整や、国家による社会権の実現等のためだけに肯定されるという論理である。
⑵ 一元的内在説 大日本帝国憲法時の公共の福祉は全て外在的制約を根拠とする(一元的外在説)に親和的であったが、新気鋭の理論として全て内在的制約とする理論が存在する。この理論は、自由権の衝突する場面では制約は利益調整に「必要最小限度」に限って肯定され、社会権や受益権の実現を目的とする場面では目的達成に「必要な限度」に限って肯定されるとする。
 一元的内在説は人権感覚に優れた近代的な解釈論である一方で、「必要最小限度」や「必要な限度」という曖昧な制約の限界が問題となる。思うに、憲法判断の場面で最高裁が米国型の違憲審査基準論よりも、独逸型の比較衡量論を広く取り入れている国内の司法においては、裁判官が事案ごとに判断枠組みを構成できる一元的内在説は使いやすい理論ではないか。

2 特別関係

 特別関係を理由とする人権制約の理論は、「公法上の原因に基づく制約」を出発点に発展してきた。従来は、特別関係内部の問題について司法審査が及ばないとする理論が主流であったが、人権感覚の醸成した今日においては、私的自治により関係が合意によって設定されたなど特段の事情がない限り、特別関係の設定目的の範囲に限り人権制約が肯定される
 思うに、法人や外国人の人権享有主体性を考えるときと同様に、基本約款と同じ機能を果たす関係設定の目的に照らして人権の限界を確定しようとする点では、公共の福祉論も人権享有主体性も問題とすることは大きく異ならない。

猿払事件(12)

堀越事件(13)

1 問題の所在
 公務員の政治活動の自由が問題となった12事件・13事件は、公務員が政治活動をすることを、人事院規則等の法規で禁止していたため、これの合憲性が問題となった。
 二事件の違いは、12事件が外形的に公務員の政治活動が明らかである事案だったが、13事件では外形的な明らかさが認められなかった。
2 堀越事件・堀越事件
⑴ 政治活動の自由 政治活動の自由は、政治的表現活動をする自由として21条1項で保障されると解される。
⑵ 公務員についても、日本国民が民主主義国家の担い手であり、その政治的基盤を表現の自由が支えているという点から、表現の自由の保障について一般国民と別異に解することなく保障が及ぶと解するべきである。
⑶ しかし、公務員の地位の特殊性から、公務の中立的運営が確保され、これに対する国民の信頼が維持されるといった、国民の国務請求権的な利益のために公務員の政治活動の自由は制限されると考えられる。
⑷ 国民全体が安心して中立な行政サービスを受けるためにする、公務員の政治活動の自由を制約する規制立法は、その立法目的が正当(自由権と国務請求権の対立は双方重要であるから、目的審査の深度はあまり深めず「正当(=憲法の価値秩序に反しない)」程度の介入で済ませる)であって、規制手段と目的との間に合理的関連性がある場合には、必要最小限度の制約として許容される。
 手段審査を関連性(具体的な実効性まで求められず、抽象的な理屈づけができる程度で足る)に留めた理由は、12事件の政治活動が外形的に公務員の政治活動であることが明らかである事案で国民の国務請求権的な利益が侵害されやすい具体的事情にあったためである。
⑸ この点、堀越事件は外形的に公務員の政治活動であること明らかでない事案で、国民の国務請求権的な利益と公務員の自由権の対立が12事件に比べフラットであったため、手段審査は実質的関連性(具体的な実効性を求める)を求めて公務員の自由権側に寄った基準で行った。

全逓中郵事件

全農林警職法事件

全逓名古屋中郵事件

1 公務員の労働基本権
 公務員の労働権については特に争議権をめぐって判例が集積していった。初期の判例は、公務員が全体の奉仕者(15条2項)であることを理由に公務員の争議権を一切禁止することを合憲としていたが、全逓中郵事件では、公務員の争議権の制約を正当化する根拠につき実質的な判断へ踏み込み、諸般の事情を総合考慮することで争議権もとい労働基本権の制約を必要最小限にとどめるとの基準を示した。
2 全逓中郵事件での制約正当化根拠の分析
⑴ 労働基本権(27条2項)は、生存権(25条)を国民が就労する場面において具体化したもので、国家に対して権利利益の具体化を請求することのできる社会権である。これは、資本主義経済において国民は労働の対価を生活の糧としていることに鑑みて、就労の場面でも人権の保障を実現する趣旨である。
 この点、公務員であっても、財政民主主義によって法律で定められた俸給を糧に生活している点では一般の国民と差異なく、この限りで27条2項の保障が及ぶと考えるべきである。
⑵ 一方で、公務員の労働基本権も職務の公益性や地位の特殊性に鑑みて一定の制約を受けることを免れない。このような制約を正当化する実質的な根拠は、① 憲法の価値秩序(国家権力を抑制するための価値秩序)が公務員という地位を想定しており、公務員としての目的を達成するため他人権との関係で一定の制約を受けることは憲法の要請に適合するとする見解や、② 公務員は国家の機関として特別な社会的接触に入っており、このような特別関係の目的の範囲で一定の人権制約が肯定されるなどの見解がある。
 そして、公務員は公務を中立的に遂行し国民全体に奉仕する存在であるから、公務員の争議権を考えるとき、国務請求権的な国民の共同の利益と公務員の労働基本権の調整が必要となる。
⑶ 全逓中郵事件では、労働基本権は労働者の自由と平等を実現するための手段であるとして、権利の重要性を自由権に比肩するまでに引き上げ、国民の共同の利益を実現するためにする公務員の労働基本権の制約は必要最小限度にとどめるべきであるとした。
 そして、労働基本権に対する制限が必要最小限度のものとして許容されるかは、勤労者の提供する役務が公共性の高いものであり、役務の提供が低廃することで生じる国民の重大な障害を避けるために必要やむを得ない場合であるかを、諸事情を総合的に考慮して判断する姿勢を示した(よって違憲)。
3 他の判例
ア しかし、他の判例では公務員の労働権に対する態度は厳しく、公務員の労働基本権の制約は必要最小限度にとどめるべきであるとの、労働基本権を自由権と同格に扱うかのような基準は維持しつつ、公務員のする争議行為は、① 俸給が法律によって定められており争議行為をする意味が乏しいことや、② 市場の抑制力が働かないこと、③ 人事院の勧告制度によって争議行為は代替できることを理由に、法律による争議行為の一切の禁止を合憲とした(全農林警職法事件)。
イ 一方で、公務員の労働権に配慮する判決もあり、都教祖事件と全司法仙台事件で最高裁は、「一切の」争議行為やこれを煽る行為を禁止しているように読める法律について、合憲限定解釈により法律によって禁止するに値する程度に違法性の強いものと解釈を加えた。この判決は、公務員の労働基本権の制約は必要最小限度にとどまるべきとした全逓中郵事件判決と近似値を示していると考えることもできる。
 
第二十七条 すべて国民は、勤労の権利を有し、義務を負ふ。
②賃金、就業時間、休息その他の勤労条件に関する基準は、法律でこれを定める。
③児童は、これを酷使してはならない。

3 私人間効力

 憲法の価値秩序を私人間に適用しようとするとき、一般的にその価値秩序が生のまま妥当することはなく、何らかの法的技術によって変容するものであると考えられており、その一側面として憲法上保障されていた権利が私人間では制約に服するという現象も観察できる。というのも、憲法は公権力を名宛人として、自然権思想に基づき国民に保障された人権の体系であるから、私人間を規律する民法とは権利利益の保障を考える文脈を異にする。したがって、憲法に宣言された権利利益を私人間で実現するとしても、その権利の内容及び性質は私法という文脈の中で変容しなければならない。
 以上を踏まえれば、実定法の法秩序に憲法の価値秩序が直接妥当する(直接適用)説は説得力を失い、今日の学説では間接適用説と非適用説のいずれを採るべきかに議論の比重を移している。そして、憲法の私人間適用に関する最高裁(三菱樹脂事件)は、通説は民法90条の公序良俗に憲法の価値秩序を読み込んだものとする間接適用説を採っているが、非適用説と解する余地も残しており、今日では非適用説の重要性が再認識されつつある。

三菱樹脂事件(9)

1 問題の所在
 原審は、雇用において優越的地位にある企業が入社希望者の思想信条を理由に解雇した事実につき、このような企業の行為は19条・14条に反しており、民法90条の公序に反して違法であると結論づけた。この点、上告理由にもあるように、憲法19条・14条は私人間を直接規定するものではないから、原審のような判決は法の解釈を誤ったものではないかが問題となった。
2 最高裁の法理
 憲法19条・14条等の自由権的基本的人権規定は、公権力の統治行動を規律するものであって、専ら国又は公共団体と国民の関係を規律するものである。一方で、私人間の関係においては専ら私的自治の原則に委ね一方の他方に対する侵害の態様が社会通念上許容し得る一定の限度を超えたと認められる場合にのみ、方がこれに介入し利害関係を調整するという建前がとられている。
 であるなら、憲法の価値秩序の問題と私人間の利害対立の問題は自ずと考慮すべき事柄が異なり、憲法上の人権規定をそのまま私人間に適用ないし類推適用すべきでない。
3 私見
 9事件が非適用説と間接適用説のいずれを採ったものか議論の余地があることはすでに触れた通りであるが、思うに間接適用説に立つと考える方が妥当である。なぜなら、最高裁が企業と私人の利益対立を分析するにあたって、企業側の採用の自由を22条及び29条を手がかりに導いており、論理の構造的には19条及び14条に裏付けられた私人の利益と、22条及び29条を手がかりとする企業の採用の自由を社会通念に従って調整しており、対立利益の導出に憲法の価値秩序を用いている点で間接適用説に立つとする見解が妥当である。
 一方で、非適用説の重要性に影響はなく、憲法と私法の距離を考えるにあたり非適用説の役割は依然大きいと考えられる。

第九十条 公の秩序又は善良の風俗に反する法律行為は、無効とする。


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