さて、なにが幸せやら?
昨日から今日、碌でもないことに私はドイツの哲学者カール・ヤスパーズの著書「実存哲学」にある一節を心に留めて過ごしました。
「真の哲学は、存在することについて問うこと」
実存主義なんて、あんまり勉強したこともないのに何か心に引っかかってこの問いについて、ボーッと考えていました。そして、何気ない日常の中で、深い存在の問いが突然私の心を動かしました。それは「幸せとは何か?」という問いです。
パートナーが抱えるトラウマという現実を通して、この問いに対してより強く私の心を突き動かしました。
朝、この頃は胃腸風邪で飲ませてもらえなかったボトルのコーヒーを口にしながら、私はこの難問に挑みました。窓の外を見て、静かに熱い風に揺れる木々の様子を眺めながら、心の中に湧き上がる思考を整理しました。
振ればカランカランと梅干しのタネでも入ってるのかと思うぐらい小さな脳みそをフル回転です。そして、ある結論に達しました。
「幸せを決めるのは、他人ではなく、自分自身だ」と。この結論は、フランスの思想家シモーヌ・ド・ボーヴォワールの名著「第二の性」の中の一節、「私たちは自由であり、その自由を使って自己を創造する」という考えに通じるものでした。
昼食後、万年床に身を沈め、私はさらにこの問いを追求しました。もし幸せが自分自身から生まれるのなら、その鍵となる要素は何なのか?
まぁ、そんなに簡単に出てくる答えではありません。やはりボーっとしながら考え、疲れてきたので昼寝を途中で挟んで思考をまた巡らせました。
そして、その答えがふと、私の心に浮かび上がりました。それは「冷静に過去と向き合うこと」と「分析能力」です。
過去との対話とは、自身のトラウマや経験を受け入れ、それを理解し、自己との対話の中で新たな自我を見つけ出すというプロセスを意味するのではないか?それを何度も挫折しながらも、繰り返し問い続けることが重要なのではないのかという1つの結論に達したのです。まぁ、あくまで現段階での話なんですが。
そして、これに対して「分析能力」は自分自身の内面や現状を理解し、問題解決への道筋を立てる能力。これはデカルトの「方法序説」にある名言「我思う、ゆえに我あり」の精神を現しています。
つまり、自己と深く対話し、理解することから自己の存在が形成され、その存在こそが真の幸せへの道筋なのではないかと考えたのです。
一日を通じて、自分自身との深い対話を経て、パートナーと共に歩む道を見つけ出すことがちょっとできました。まだ自分勝手な考えなのでこれからも精査が必要ですが、取り敢えず今回考えたことをバックボーンにパートナーのトラウマ理解と解消に向き合えればなぁと思っています。
全てが完全に解決したわけではありませんが、それでも新たな視点が見えてきました。私の心の中にはまだ多くの思考が交錯していますが、それら全てが新たな一歩を示しているのです。
そして今回の日記を終えるにあたって、私はフリードリッヒ・ニーチェの「ツァラトゥストラはこう語った」の中の言葉を思い起こします。「人間とは、自身を超えるものである」。
そして、それこそが幸せへの旅路であり、その旅路はまた明日も続いていきます。自分のために、パートナーのために考えることをやめないで、幸せはどこにあるやら?とテクテクと歩いていくことにします。
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