私たちは弱く、傷だらけ(ヴァルネラビリティについての一試論)
ヴァルネラビリティは、これまで日本語ではコンピュータや情報セキュリティの世界で「脆弱性」といった意味で使われていました。
脆弱性とは、コンピュータやネットワークのセキュリティが第三者によるシステムへの侵入や乗っ取りといった不正行為が行われる危険のあるシステムの欠陥や問題点のことで、「攻撃されやすいこと」という意味です。
verdeさんはヴァルネラビリティを「弱さ」という訳語を用いられましたが、私は「傷つきやすさ」という訳語を採用してみたいと思います。あまり違いはありませんが、皮膚の感触と身体性に重点に置きたいと思ってこちらの訳語を採用します。
さて、ここで登場させたい思想家がいます。それがジュディス・バトラーです。バトラーもヴァルネラビリティをキーワードに論を進めていく箇所がいくつも見られます。そんなバトラーのヴァルネラビリティとはどんなものなのでしょうか。
バトラーの「ヴァルネラビリティ」(傷つきやすさ)は、他者との関係性における傷つきやすさを指し、バトラーの思想において重要な概念です。
この概念は、特に不安定な状況に置かれた人々が集まる際に強調されます。バトラーは、言葉自体が人を傷つける力を持つとし、この「傷つきやすさ」は言語の問題とも関連しているとされています。その上バトラーは、ヴァルネラビリティがコミュニケーションの一部であり、避けるべきものではないと考えています。なぜ避けるべきではないのか。普通だったら傷つくことを恐れ、避けるのが当然でしょう。
バトラーは、言語が本質的にいかに私たちを傷つける可能性を持っているかを検証することで、「傷つきやすさ」と「言語」の関係を探っています。
「傷つきやすさ」という概念は、言葉の影響を理解する上で中心的なものであり、言葉は肉体的な傷害がなくても心理的な傷害を与えることができることは想像に難くありません。 バトラーは、私たちの存在は生物学的であると同時に言語的なものであり、私たちのアイデンティティと社会的相互作用を形成する言語の暴力の影響を受けやすいと主張しています。
この「傷つきやすさ」は完全に否定的なものではなく、コミュニケーションや社会的関与への参加を意味し、傷つけ、抵抗を可能にする言語の力の逆説的な性質を浮き彫りにしているのです。
バトラーは、女性やクィア、トランスジェンダーなどのマイノリティが、差別により他者よりも傷つきやすい状態のとき「傷つきやすさ」という言葉を使います。バトラーはこの概念を、人々が集まることで政治的主張をする場面に適用し、集まることで「傷つきやすさ」が増大することを指摘しています。
そして、バトラーは、言葉が人を傷つける力を持つと論じています。例えば、侮辱的な言葉が心理的な痛みを与え、社会的な存在としての主体化に影響を与えると述べています。
バトラーは「傷つきやすさ」の概念を、「可傷性」(身体的危害に対する脆弱性)と「被傷性」(社会的危害に対する脆弱性)の両方を包含するものとして説明しています。
前者は、生まれながらにして保護を必要とし、最終的には死を免れない人間の身体に内在する身体的脆弱性を指します。 後者は社会的側面を含み、身体は社会的規範や言説の対象となり、社会的権力構造に対して脆弱となるのです。
バトラーは、社会的文脈における身体のパフォーマティブな性質を探求することで、「傷つきやすさ」を「語られる身体」「語る身体」と結びつけています。
「語られる身体」は規範的な言説によって形成されるが、「語る身体」はこれらの規範に抵抗し、再解釈することで、その主体性を際立たせることになります。そして「傷つきやすさ」 は、身体が傷つけられたり、他者に危害を加えたりする可能性を意味し、喪に服し、喪失を認識することによる倫理的なつながりを強調することに繋がります。
この「傷つきやすさ」は、他者の行為や社会的構成にさらされる身体の公共的な側面を強調するのです。身体は私的なモノに思えるかもしれませんが、それだけではないということですね。
バトラーの「傷つきやすさ」と「語る身体」の概念は、社会的・政治的文脈における身体の役割の探求において相互に関連しています。
「語る身体」は、パフォーマティヴィティを通じてアイデンティティを再定義することによって規範的な言説に抵抗し、社会規範によって定義される「語られる身体」に挑戦することになります。
「傷つきやすさ」は、社会的相互依存の中で身体が傷つきやすいことを強調し、他者に対する倫理的責任を強調します。 この「傷つきやすさ」は、抑圧的な構造に対する連帯と抵抗の必要性を強調するものであり、私たちに内在する相互のつながりと倫理的義務を反映するものでもあるのです。
と、まぁ、ダラダラと書き連ねてしまいました。ヴァルネラビリティについて、こういう考え方もあるよーというぐらいで受け止めてもらえると幸いです。
文章の途中で出てくる「パフォーマティビティ」という用語や「倫理的義務」とは何かといったことは今のところ棚上げしておいてください。機会があったら説明します。無責任ですみません。
そんな感じで、ヴァルネラビリティについての一試論でした。なんか大学生が書く期末レポートみたくなっちゃいました。ちゃんちゃん。
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