【2025年目標】期待しないで生きることは可能か?
年が明け、早くも14日目。計算してみると「1年の3.83%」が過ぎ去っていたようだ。たった3.83%。されど3.83%。「そんな3.83%の時間にあなたは何をした?」という質問に即答できない自分がいる。
そういった経緯で、例のごとく慌てて新年の目標を立てた。今年の目標は「期待しないで生きる」。年初の目標を達成できる人なんて、「ごく限られた一部の強者」ということは、さすがに45年以上生きていれば気づいている。年初の目標なんて、小さければ小さいほどよいのだ。
「期待しないで生きる」ということ。それは「相手に思い通りに動け」と願うことをやめるということ。冷静に考えれば、他人が自分の思い通りに動くことなんてあるはずがない。にもかかわらず、自分のルール、常識内で「こう動くだろう、こうしてほしい」と無意識化で予測(期待)を立てている。
結果「イライラ」に直結してしまう。心穏やかに過ごすには、「期待しないで生きる」ということは必要不可欠だ。このことを再認識したのは、小説「ソバニイルヨ」喜多川泰(著)を昨年末に読んだことがきっかけだった。この本が、40代、中年の心にぐさりと分かりやすい音を立てて刺さった。中学生の隼人と、単身赴任となった父親が残していったロボットの「ユージ」のお話。あらすじはこうだ。
「中年の危機」に陥っているおじさんは、一読してみるのもよいかもしれない。
作中にロボット・ユージがこのようなことを言っている。「確かになぁ」とヒントを得て、今年の目標を設定したわけだ。
気づかぬうちに情報がリコメンドされ手元に届く昨今、自分の考えや思想が強化(頭でっかち)されていくのは、致し方ないのかもしれない。「このようなな生き方がしたい」「このような行動を取りたい」「このようにありたい」。しかし現実はどうか。自分の理想とは違う現実で社会は回っている。「これでいいのか?」とイライラしてしまうことが増えた。
少し思考を巡らせ、何にイライラしているのかを思い起こしてみた。
横断歩道で止まらない車
オレンジラインを越えて無茶な車線変更をする車
ひたすら右車線をゆっくりと走り続ける車
高齢者優位の社会
ポイ捨てする男性
相も変わらず歩きたばこをする男性
ジムで「大声での会話は控えましょう」のアナウンスの直後に大声で話すマダムたち
公共施設の入り口を塞ぎ井戸端会議を広げる二人組
狙った馬が馬群に沈む
どこにでもありそうなことばかりだ。きっとどれだけ強く願ったとしても、彼らが私の「期待」に応えてくれることはないだろう。イライラしているのはいつもこちらで、相手は恐らく「なにも感じていない」のだ。
「期待することをやめる」。恐らくそれだけで随分と生きやすくなるのではないか。そんなことを、ふわっと思いつき目標にしてみた次第である。これは他人だけでなく、自分自身にも当てはまる。自分への期待をしない。そうだ。新年の目標なんて達成するほうが稀なのだ。