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「歪んでいて綺麗なもの」
Mrs. GREEN APPLEの楽曲「アウフヘーベン」について、その歌詞を紐解いていく。
実は、この曲は現代社会への風刺に満ちている。
まずはアウフヘーベンの意味について確認しておこう。
アウフヘーベン〈ドイツ語〉
日本語訳: 止揚、揚棄
意味: 引き揚げる、保存する、廃棄する
一般的な意味: 幾つかの矛盾・対立する要素を合わせ調整し、より高次元の状態へ導くこと
この曲はアウフヘーベンを「AとB、ふたつの相反する事象について双方の良さを見出してより高次元のお互いが納得する答えを導く」といったような意味で用いている。
(ただしこれは哲学的観点からすると誤用である。ヘーゲルによる弁証法的な意味について話すと長くなり、またここでは不要なため省略する。)
さて、楽曲「アウフヘーベン」の中ではどのようにアウフヘーベンが語られているのだろうか?
1番
フリコに踊らされた街
いつ滅んでもいいと思う
中身ヘリウムガス風船
飛んで飛んで弾けていった
「フリコに踊らされる」とはつまり、世間が色んな情報や考えに振り回されていることを指している。
フリコが右に動けば目線が右に、左に動けば目線も左に動く、と言ったように、誰かがAだと言えば人々もそれに従いAだと唱え、また別の人がBと唱えれば人々は途端にBだと言い出す、といった有り様である。
そのような世間・人々の自分の考えを持たない様、中身がない様を、中身ヘリウムガス風船に例えているのだ。(ヘリウムはこの世で水素の次に軽い元素である)
「ああ まだ生きたりないな」
「ああ もう死にたいな」
「もう嫌だ 逃げていたいな」
「あそこが羨ましいな」
この歌詞は極めて重要である。なぜならこれこそがアウフヘーベンの元となる、相反する要素だからである。
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MVでは子供と老人が描かれている。
A「もう死にたい」と思う子供
B「生きたりない」と思う老人
というAとBの相反する要素が生じている。
同様に、この場所から逃げていたいと思う人もいれば、その場所を羨ましいと思う人もいる。
甲子園を目指す強豪校の球児たちはプレッシャーや辛い練習から逃げ出したいと思っている一方で、甲子園を目指せる環境にあるのを羨ましいと思う弱小校の球児がいるといった意味だ。
そのような矛盾をここでは歌っている。では、それらをアウフヘーベンしてみようではないか!
ならもう間を取ってみましょうか
そうはいかないな
しかし、それらの矛盾の間を取る、つまりアウフヘーベンしようとしても、そうはいかない、できないのである。
それもそのはずで、死にたいと思う子供の寿命を生きたいと思う老人にあげるといったようなことはできない。
なんだっていいんだって。直に嵐は過ぎる
安牌な回答で直に虹が架かる
大丈夫 心配ないよ。大勢が傷つくだけ
なんてことはないよ
句点がついていることから察するに、「なんだっていいんだって。」以降は自分以外の誰かの発言であろう。
悩んでいる主人公に対してその人は、安牌な回答を与えれば嵐は過ぎ去ると教えてくれたのだ。
しかし、悩みは安牌な回答を与えられれば解決するのだろうか?答えは明らかにNOである。
しかし彼は気付かない。自己を持たず、他人の意見に流されるからだ。まさに「フリコに踊らさている中身のない風船」そのものである!
大勢が傷付くだけ
なんてことはない
この発言の真意は2番のサビで明かされる...
人を朝日が差す、人を朝日が刺す
嵐が過ぎれば、朝日が差し込む。
しかし、朝日は人を刺す。
例えば、なかなか眠れず朝を迎える病気の人、学校や仕事に行きたくなくて朝が来るのが怖い人、
そういう人たちにとって朝日とは微笑ましい1日の訪れを知らせる吉報だろうか?
いや、そうではないはずだ。
その人たちとって朝日とは最も見たくないものの1つであろう。絶望の1日が始まる合図なのである。それを「朝日が刺す」と表現する秀逸性には舌を巻かざるを得ない。
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2番
ゆらりゆらり揺られている
私はどちらに流れればいい?
離陸に手こずって
ドン臭いのがばれちゃうよ
これは1番の歌詞と同様に、周りに流される人々を皮肉な表現で例えている。自分の意見がないから周りを伺い、どちらに流れればいい?と考える。そうこうしてるうちに決断を決めれず、かといって置いていかれるのも嫌だ、という未熟な人間の心理を巧妙に描いている。
「ああ どれが私の音だ」
「ああ これが僕の音だ」
「もう嫌だ 逃げていたいな」
「あそこが羨ましいな」
ならもう間をとってみましょうか
そうはいかないな
どれが私の音(=本音)か分からない人もいれば、それをはっきり認識出来ている人もいる。一方その人ですら誰かを羨ましいと思うことがある。
そのような人間のあいだでの矛盾を1番との対句形式で表現している。
ここは新曲「ダーリン」に通じるところもある。
なんだっていいんだっけ?ほら嵐がまた来る
安牌な回答で次に雨を降らす
大丈夫 心配無いよ。大勢が傷つくだけ
なんてことはないよ、直に夜は明ける
1番との対句構造が素晴らしい2番のサビである。
大事なところなので読み飛ばさずに読んで欲しい。
1番で主人公は「なんだっていいんだって。直に嵐は過ぎるから」と言われて、その意見に納得している。なぜなら散々描かれている通り、人々には中身がないからである。だから「なんだっていい」という軽率な発言を盲目的に信じ、流されてしまう。
しかし彼は2番でようやく疑問を持つのだ、安牌な回答でその場をしのいでも、嵐はまたやってくるではないか!
それどころではない。その安牌な回答こそが次に雨を降らす要因になるのだと気付く。
そして、1番の発言の真意を察するのである。
1番「大勢が傷つく(だけ)なんてことはないよ」
つまり大勢が傷付くことはないよ、という意味で受け取っていたこの発言の真意は、
2番「大勢が傷つくだけ。なんてことはないよ、直に夜は明ける」
つまり、大勢は傷つくけど、なんてことないよ。ということだったのである!
多くの人は傷つく。傷つくことが分かった上で助言者はそれすらをも「なんてことはない」と発言したのである。
つまり、自分さえ良ければ、どれだけ大勢が傷ついても構わないという意味である。
自分が楽をするということはその分誰かが苦労をするということを想像してみると分かりやすいかもしれない。VIPに通じる部分がある。
Cメロ
歪んだ世界とはさ
修復はもう無理なのか
綺麗な世界とはさ
創るのはもう無理なのか
ここで物語を外れて大森元貴の心情が吐露される。
歪んだ世界という現実と、綺麗な世界という理想のギャップに彼は悩まされているのである。
君との未来があるけれど
僕たちの住む世界は
「歪んでいて綺麗なもの」でした
これこそが(哲学的意味での)アウフヘーベンである!
死にたい子供と生きたい老人、その矛盾をアウフヘーベンすることは不可能であった。
しかし、「歪んだ世界」と「綺麗な世界」はアウフヘーベン可能なのである!そのアウフヘーベンされたものこそが、「歪んでいて綺麗なもの」、つまりこの世界に他ならないのだ。
A:このフリコに踊らされた世界は歪んでいる。
B:一方で君と僕の住む世界は綺麗でもある。
同じ世界のはずなのに、A、B相反する両面性を帯びている。しかしそれらは統合可能なのである。そう、彼はその矛盾を統合(アウフヘーベン)し、この世界を「歪んでいて綺麗なもの」だと再解釈したのである!
なんだっていいんだって。直に嵐は過ぎる
安牌な回答で直に虹が架かる
大丈夫 心配無いよ。大勢が傷つくだけ
なんてことはないよ、直に朝日が差す
1番のサビが繰り返される。しかし、彼はもうこの言葉には簡単に騙されない。他者に流されることに疑問を覚え、成長への1歩を踏み出している。
なんだっていいんだっけ?
大丈夫なんだっけ?
P.S.
ここまで読んでいただきありがとうございました!良ければ♡やSNSでのシェアなどしていただけると嬉しいです!
歌詞を紐解く中で色々な発見もあり、自分にとってすごく有意義な時間になりました。何年も聴いている曲なのにまだまだ新しい発見があったなんて!
特に、「なんてことないよ、」の読点の位置の違いには驚かされました。1番と2番のサビ、繰り返してるようで全く違う捉え方ができますね。
そしてこの世界を「歪んでいて綺麗なもの」だという結論に至るあたり、やっぱり大森元貴だな、と。この矛盾を愛するのは大森元貴に通底する哲学だとつくづく感じさせられます。プロフィールに固定しているコロンブスの歌詞解釈を見ていただけるとその理解が深まると思います。
久々にミセスに関するnoteが書けてどこかほっとしています。またどこかで👋