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多数決≠最大支持

候補者が減って、当選者が変わる


 2021年の衆議院選挙では「野党共闘」という言葉が出て来た。
 立憲民主党、日本共産党、国民民主党、れいわ新選組、社会民主党の野党5党が、289ある小選挙区のうち213の選挙区で、候補者を一本化する戦略だった。詳しくは省くが、予想に反して、さほどの成果を得られなかった。
 この時の問題のひとつに、「支持政党の候補者に投票したい。他の党には投票したくない」というものがあった。
 たとえば、ある選挙区で自民、立民、共産から候補者が名乗りを上げる。しかし、立民の立候補者が、辞退する代わりに共産の候補者に投票してくれと訴える。これに反感を抱く人たちがいたのだ。
 野党共闘の最大の目的は、自民党の議員を落選させるために、非自民党議員を一人でも多く送り込むこと。まずはそこから始まる物語のはずだった。


 単純化するために、投票する人数を20人とする。
 そのうち、自民を支持する人が9人、立民の支持者が6人、共産の支持者5人とする。このままでは自民が当選となる。
 しかし立民の候補者が辞退し、立民に投票するはずだった人たちがすべて共産に投票すれば
 自民=9人、共産=11人
 となって、共産が当選となる。
 各地で立民、共産(及び他の党の候補者)が、自民を悉く破った後に連立与党となってから、細かい部分は調整すれば良いはずだった。
 ところが、実情はそう単純ではない。
 立民を支持し、自民を嫌い、共産も嫌いという人は当然いる。その感情を押しのけてでも、共闘だから共産党に投票してくれると期待していた。
 自民党を与党から野党へ転落させるのが第一目的だから、細かい部分には目をつむってくれ、と。後は何とかするから、と。説得しただろうか。
 期待はしたが、納得させられるまでには至らなかったのである。

多数決≒最大支持


 さて、本題はここから。
 立候補者が減ると当選者が変わるという例を挙げたが、今度は、多数決で勝利したのに大多数の意見では無かったという例を挙げてみたい。
 まず、多数決で決まれば大多数の意見という、至極当然の例を挙げてみよう。
「今日はみんなで昼飯を食べよう。どこへ行きたい?」
 と聞いた時に、20人中12人が「ラーメンが食べたい」と言い、4人が「牛丼にしよう」と言い、4人が「ハンバーガーがいい」と言った。
 ラーメン=12人、牛丼=4人、ハンバーガー=4人
 多数決により、ラーメンが選ばれた。この場合、最も多い人数の意見である。

 では、先ほどの例をそのまま使ってみよう。別のグループに聞いてみたところ、
 ラーメン=9人、牛丼=6人、ハンバーガー=5人
 となった。
 この場合も多数決によりラーメンとなるが、それ以外が11人いるから、大多数ではない。
 多数決という、一見すると「最も多い支持を受けたものを選ぶ」という公平なものが、「最も多い支持を受けたものを『選ばない』」人の方が多いという矛盾が発生する。
 分かりやすくいえば、
 ラーメン=9人、ラーメン以外=11人。
 実際に後者に聞いてみたら、「牛丼が良かったけど、ラーメンとハンバーガーなら、ラーメンの方がいいかな」という答えになるかも知れないし、その逆になるかも知れない。だが、「ラーメンが良いか、嫌か」という二択があったわけではない。無数の選択肢の中から任意に選んだだけであり、もしも残りの11人が「ラーメンは嫌だ。牛丼がダメなら、ハンバーガーの方がいい」(あるいはその逆)となれば、実は最も支持されていなかったものが、選ばれてしまった可能性も捨てきれない。
 ラーメン=9人、牛丼=11人。
 と、結果が覆る。
 ただ、そこまで考えると、さすがにパズルゲームの感覚になってしまうのだが。

得票率と決選投票

 では、最初の例でいえば「立民を支持しているから自民には投票したくないが、共産にも投票したくない」人のジレンマは解消できないのだろうか。

 決選投票がある。

 これは党首選挙で行われることもある方法だが、もう一度、先ほどの設定で変化させて使おう。
 党首選挙に、A氏とB氏とC氏が立候補した。
 20人が投票した。
 A氏=9票、B氏=6票、C氏=5票。
 このままA氏を党首としてもいいのだが、問題が起こる。
 A氏の支持者よりも、A氏の不支持者の方が多い。
 つまり、
 A氏=9票、A氏以外=11票。
 B氏の支持者の一人は「B氏がダメなら、C氏の方が良い。A氏は嫌だ」と答えるかも知れない。あるいはその逆もある。ここで、得票率という考えが現れる。
「得票率が50%未満の場合、決選投票を行う」
 こうすれば、A氏の得票率は9÷20=0.45、すなわち45%の支持しか受けていないので、決選投票に持ち込まれる。
 得票率の上位二人、すなわちA氏とB氏だけが投票の対象となる。
 こうなればどちらかは50%以上の支持を受けることになる。
 仮に半々になったら、再度やり直す。C氏へ投票していた人がすべてB氏へ投票するかも知れないし、分裂するかも知れない。少なくとも、不支持者の方が多い人が党首となる危険な状態は避けることは出来る。

 ここでふと、考えないだろうか。
 すべての選挙で、こうすればいいのではないか、と。

 地方の選挙でも同じようなことは起こる。
 最大得票数で当選した人が過半数に満たず、当選者を支持していなかった人の意見を聞いてみると、当選した人よりも二位だった人への支持が多く、仮に三位以下へ投票していた人がすべて二位の人に投票していたら、結果が覆ることがあるのではないか。
 少なくとも、「あの人は私たちの選挙区から出た人だが、あの人を支持した覚えはない。多くの人がそう思ってる」ような事態は避けられるはずだ。

 これが出来ない理由は単純だ。
 20人が相手なら、もっと複雑な事態になっても、何時間とかかるものではない。しかし、地方でも有権者は数千どころか数万人にも及ぶこともある。集計だけでも、とんでもない時間と手間がかかることは想像できるだろう。

ボルダ方式とナウルの例

 ボルダ方式というものがある。
 簡単にいえば「点数を入れる投票」だ。
 αさんが「私はA氏を推したい。A氏がダメならB氏だ。C氏は支持できない」とする。
 しかしβさんはその逆に、「C氏を推したい。次はB氏だ。A氏は支持できない」という人もいる。
 そこで、点数を入れる。
 αさんは「A氏=3点、B氏=2点、C氏=1点」。
 βさんは「A氏=1点、B氏=2点、C氏=3点」。


 お分かりだろうか。

 同じように20人が投票したとする。
 10人はαさんと同じで、残り10人はβさんと同じ。最終結果は以下の通りになる。
「A氏=40点、B氏=40点、C氏=40点」
 αさん陣営やβさん陣営が、最も支持しているか最も支持していないA氏やC氏と同様に、どちらにとっても「不支持の相手よりは、この人の方がまだ良い」B氏が同じ点数を獲得している。
 もしも、αさん陣営のひとりが「A氏でもいいけど、今回はB氏かな」と思って、B氏=3点、A氏=2点、C氏=1点にしていたら、どうなるか。
「A氏=39点、B氏=41点、C氏=40点」
 となり、一番手としては支持されていなかったはずのB氏が当選することになる。
 これは、単なるパズル遊びではない。
 日本ではボルダ方式の選挙が投入されていないが、実際に採用されている国ではこのようなことが起こる。


 いわゆる組織票などは、太刀打ちが難しくなる。
 『組織票』というのは、たとえばある会社が社員全員に「〇〇党に投票しなさい」というもの。見返りに、〇〇党はその会社を優遇するわけだ。
 だがこの組織票も、近年では崩壊しかかっている。そもそも、投票には守秘義務があるからだ。
 たとえば課長に「〇〇党に入れたよな」と聞かれても、答える義務は無い。むしろ、答えてはいけない。聞いてもいけない。だから、「はい、〇〇党に入れました」と言いながら、実際は△△党に投票していても、構わない。聞くこと自体が違法で、投票先を強制するのも違法なのだから、遠慮することはない。
 以前、「ここの選挙区には組織票で〇万票が入るはずなのに、得票数が少なすぎる」という政治評論家の話を読んだ。結論として「会社に言われても、自分の好きな党に入れる人がいるのではないか」とし、「そもそも、組織票の存在自体がおかしいのだから、いつまでも(与党は)組織票だけを頼みにいると、気付いた時には足元が崩れているということになりかねない」、と。


 ボルダ方式は日本に馴染みがないので有識者でも理解の及ばないところがあるので、ここでの意見も個人的な持論、勝手な感想と思い、興味があれば自ら調べて欲しい。
 組織票にこれが通用しづらいのは、先の例でいえば「A氏に投票しなさい」と言われた人たちがA氏に3点を入れても、B氏とC氏に何点入れるか分からないところにある。むしろ、分散する。どこを落選させろとまでは、まず言われないからだ。
 仮に大企業ア社では、B氏を1点にしなさいという。大企業イ社では、C氏を1点にしなさいという。もしも誰かが気まぐれを起こせば、最大支持のはずだったA氏が落選することもあるし、B氏とC氏の決選投票になることもある。


 ナウル共和国のボルダ方式は、もう少し複雑だ。
 分かりやすく、候補者の人数は5人で、最大5点とする。
 そして、有権者が候補者に1位から5位までの評価を与える。
 普通の方式なら、順位が下がるにつれて1点ずつ下がる。
「A氏=5点、B氏=4点、C氏=3点、D氏=2点、E氏=1点」
 しかしナウルでは、人数に対する比率で点が下がる。
「A氏=1点、B氏=0.50点(1/2)、C氏=0.33点(1/3)、D氏=0.25点(1/4)、E氏=0.2点(1/5)」

 これがどういう結果をもたらすのかは、数学好きな人は試して欲しい。
 
 他のも様々な投票方式があり、世界各国では試行錯誤している。
 意外に思われるかも知れないが、最大得票数がそのまま当選するという日本の方式は、世界共通というわけではない。


反対7、賛成1

 「反対7、賛成1。よって、本案は可決されました」
 と言ったら、どう思うだろう。
 独裁者の姿が思い浮かぶかも知れない。
 これはアメリカ第16代大統領エイブラハム=リンカーンが、法案を協議していた時の話。7人の長官が反対したのに、大統領が賛成したので、可決となったというもの。これを以って、大統領の権限が大きいものだと解説する向きもあるが、少し違う。
 大統領は首相と違い、内閣の選任ではなく国民の投票に選ばれるものだから、政治家の代表ではなく国民の代表である。議会の法案への拒否権もある。軍の司令官でもある。だから、容易に覆すことの出来ないほどの巨大な権限を持つのは確かである。
 だがしかし、リンカーンのこの決議は、絶対の自信から来るものだという視点が欠けている。
 法案の拒否権も、再可決権を行使する議会の反発を受ければ、強行採決は出来ない。議会との対立も頻発する。国民の支持を受けているといっても、絶対的な権限があるわけでない。


 話を戻すと、リンカーン大統領も強行採決したわけではない。票決を行っている。その上で、断言しているわけだ。
 自分の意見は正しいのだ、と。
 それは、国民を自ら説得する自信があるという意味でもある。
 他の大統領で、法案を提出したものの議会の承認が得られず、国民に訴えかけてみたものの、思ったよりも賛同が得られずに撤回した話もある。
 絶対的な独裁者ではないのである。

 この時、リンカーンの発言に長官たちが拍手を送ったともいう。
 ならばリンカーンが、多数を相手にも物おじせず、決断力の高さを示した話ということになる。
 もしもリンカーンが国民を説得できるのなら、「7対1」どころか、「7対全国民」という構図に変わるのだから。

3人は国の担い手

 中国の春秋時代、晋の国に欒書(らんしょ)という人物がいた。
 歴史に特に興味がなければ、この後にも出てくる人物についても「そういう名前の人がいたんだ」という程度の認識でいい。
 成公6(紀元前585)年、晋軍と楚軍とが遭遇したので、晋の武将のひとりが中軍の将(総大将、宰相格)である欒書に会戦を願い出た。しかし、荀首(じゅんしゅ)、士燮(ししょう)、韓厥(かんけつ)の三人が会戦に反対したので、引き上げることに決めた。それを聞いた部下が、尋ねた。
「部下が11人いるのに、反対は3人だけ。会戦を望む多数に従うべきです」
 それに対して、欒書が答えた。
「どちらも良い意見であれば、多数に従う。良い意見は、多数の支え手である。
 あの三人は(国の)支え手だから、充分多数と言える。その意見に従っても、よいではないか」


少数意見でもいい


 多数決というのは万全ではない。それどころか、不公平になることもあるという例を挙げてみた。

 日常生活においては、それほど真剣に考える必要もないだろう。
 ラーメンが多数決で選ばれたのであれば、ラーメンで良い。最初から好きな所へ好きなものを食べに行っても良いのなら、そもそも多数決で選ぶ必要はない。同じように、クラスの文化祭の出し物を選ぶようなものも、選ばれたもので良い。どうしてもというのなら、決選投票に持ち込めばいい。それほど手間はかからないはずだ。


 政治という、国民生活を揺すがすようなものであれば、時間と手間は必要となる。不公平や不公正があってはならないからだ。
 だから党首選挙であれば決選投票が必然的に発生するし、様々は投票制度が試行錯誤されている。今回はボルダ投票でナウル共和国の例しか挙げなかったが、他にも多々ある。

 戦争となると、さらに厳しくなる。
 最後の例で、会戦に反対した3人のことを「国の支え手」と評している。これはリンカーンが国民の支持を得た代表であることと、類似している。
 3人の反対者も、リンカーンも、見識に溢れた人物であり、深い思慮に基づいて、意見を出した。欒書も、長官たちも、それが分かったから賛同した。欒書の部下も、長官たちも、人数でいえば多数だが、3人の反対者や大統領に思慮で及ばなかったから却下されたのだろう。
 もしも欒書が多数に拘って会戦を行っていたら、互いに甚大な被害が出たかも知れないことを、考えてみるべきだ。


 多数とは、単純に人数の多さで計るものではない。
 多数決は、必ずしも公平ではない。
 少数意見でも、間違っているとは言えない。

 多数決で決まったから正しいという人がいる。
 あるいは、多数決は数の横暴だと叫ぶ人がいる。
 その時には、果たして誰の意見が正しいのか。どうすれば公平であったのかなどを、よく考えてみるべきだろう。

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