『韓非子』「亡徴」より
『韓非子』という書物については、著作者の韓非も含めていずれ書きたい内容ではあるが、その中に「亡徴」という篇がある。
読んで字のごとく、「亡ぶ徴候」のことである。国が滅亡するのはどのような時に起こりやすいのかを、かなり厳しい視点で描いている。
その中から、ひときわ現在日本に通ずるものを抜き出してみたい。
下記に挙げるような者を為政者や社長にすれば、当然ながら民衆や部下は困窮する。
・法律や禁制では手を抜き、謀略や遠謀ばかり行い、国内は荒れていて、外国の援けを恃みにしている。亡びないことがあるだろうか。
・不当な刑罰を好み、法律が周知されない。弁舌を好んで、実用性を求めない。きらびやかなものばかりを評価し、実際の功績を無視する。亡びないことがあるだろうか。
・慢心して、反省をしない。国が乱れているのに、自らを高く評価する。国内の資産を計ることをせず、近隣諸国を侮る。亡びないことがあるだろうか。
・知恵者ぶって法律を捻じ曲げ、時には公私混同し、法律や禁制を容易く変えて、命令をしょっちゅう下す。亡びないことがあるだろうか。
・国の財産が乏しいのに、大臣の家は財産で溢れている。土着の民は貧しいのに、他所者が富んでいる。農民や軍人が困窮しているのに、商人は儲けている。亡びないことがあるだろうか。
・弁舌は優れているが、法律を無視する。心は智者だが、手立てを心得ていない。君主は多能だが、法律で物事にあたらない。亡びないことがあるだろうか。
近頃、この手の者をよく見かけないだろうか。まして、国家を担う職業の者がこうであっては、国は亡ぶだろう。
「亡徴」には最後に、韓非が以下のように述べている。
・亡徴とは、必ず亡ぶということではない。亡ぶ可能性があるということを言う。
それは、例えば(聖王の)堯が二人いたとしたも、二人が一緒に王となることはない。(暴君の)桀が二人いたとしても、二人が一緒に亡びることもない。
亡国の王となるのは、必ずその治乱や強弱が偏る者である。
木が折れるのは、必ず虫が付くからであり、垣根が壊れるのは、必ず隙間があるからである。
しかし、木に虫が付いても、強風が吹かなければ折れることはない。
垣根に隙間があっても、大雨が降らなければ壊れることはない。
大勢を指導する者は、手立てを行い、法律を執行する。亡国の徴候がある君主に対しては、風雨のような行いをする者がいれば、天下を治めることも難しくないだろう。
君主という言葉が現代では訳しづらいものとなっているが、国家元首や社長と思えばいいだろう。
歴史上、名君や暴君とされる人物はいくらでもいる。しかし、意外に思うかも知れないが、一概に括ることが出来るものではない。
名君と呼ばれる人物でも暴虐、冷酷な一面もあれば、暴君と呼ばれる人物でも慈愛、恵民の一面もある。後世が最終的に下す人物評価は、その功績であるが、最終的にどうなったか、でもある。
若い頃は横暴だった人物が悔い改めて善人となることもあれば、逆に愛情に満ちた人物が非道に走って大悪人とされることもある。
正しいことを正しく行ったか。悪いことは、悔い改めたか。
過ちを犯しても改めることをせず、好き勝手に振舞えば、いずれ見捨てられる。
自分のお気に入りの人物だけを優遇し、そうでない人物を冷遇すれば反感を買う。
亡国の徴候を見せる者が上に立った時、それに対抗するものが現れれば、取って代わるのも当然のことである。民衆や部下は、いつまでも暴虐非道の下で虐げられて、黙っていられるほど我慢強くはないのだから。
せっかくなので、一人、例を挙げて今回は締めよう。
周の厲王は、暴虐で、好き勝手に振舞い、逆らう者は殺した。
民衆が王の政治を批判していると聞いて、これを処罰すると脅すと、民衆は道で誰かと出会っても目くばせするだけで、批判を口にすることはなくなった。
厲王は「悪口を言う者がいなくなったぞ」と喜んだところ、召公が「民の口をふさぐのは、水をふせぐことよりも危険です」と諫めたが、聞かれなかった。
やがて不満を爆発させた民衆が大挙して宮殿へ押しかけると、厲王は亡命した。
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