【新時代哲学】現実世界こそヒリヒリ・ハラハラするゲームではないか。
理不尽なことに目を瞑るべきかどうか問題について。
私はよく理不尽なことに対してイライラする。
特に、それが自分のことに関する場合は尚更だ。
最初の頃は、自分以外の人が理不尽な目に合っていると「かわいそうだな」と思っていたが、社会人経験が増えると、そうでもなくなっていった。
しかし自分のこととなると話は別だ。
私が理不尽が好きではない理由、それは理不尽は美しくないのだ。
論理的でないからだ。
論理的であればまだ納得できる。
でも「理不尽=理に敵わないこと」というように、
ロジックが破綻している。
私は時にそれを本能で感じ取る。
そしてもやもやする。
うまく言語ができない、落とし込めないとき、大体ロジックが破綻している。
ちなみに
世の中には4種類の理不尽への向き合い方が存在する。
①理不尽に気づかないではいはい、取り組む熱血あるいみ純情マン
②理不尽になんとなく気付いているが、分析できずもやもやしながら働く者
③理不尽に気付いて分析できても社会はそういうものだと割り切って働く、鉄の意志を持つ者
④理不尽に気付いてそれを分析し、戦う者
今までの私は①②であった。
しかし20代も終わりかけ、経験を積み、色々と学び、自分をコントロールできるようにようになってきて、③ができるようになってきた。
成熟した大人は大体③であろう。
だが私は考える。
20代、戦ってもいいんじゃないか。
③④はもはや選択の問題だ。
④はリスクが伴う。
失うものが大きい。
理不尽なことをしてくるのは大体権力者、先輩、上司だ。
戦うと言うことは、立てつくということである。
その態度は先輩からすると、かなり生意気に映ることであろう。
想像してみて欲しい。
あなたの後輩が、あなたの指摘や助言に対して「なんでそんなこと言われなけばいけないんですか」と言ってきたとする。
あなたはどう対応するか?
まずあなたは怯むことだろう。
そして考える。なんて言い返そうかと。
「それが私の仕事なんだ」なのか「生意気いうな」なのか「勝手にしろ」なのか懇切丁寧に説明するのか。
いずれにせよ後輩への接し方が今後変わるだろう。
あなたの人間ができているなら、丁寧に説明するだろう。説明できないようであれば、それは間違った接し方だったということになる。
説明できなければいけない、が、もしできたとしてもできなかったとしても、あなたは後輩に対して良くない心証を持つであろう。
少なくともその後は、距離を置くか、気を遣って接するか、いじめるかなど対応を変えるだろう。
そう、後輩にとって先輩に立てつくということは、リスクなのだ。
ハイリスクローリターンなのだ。
成功すれば気を遣ってもらえるかもしれないが、可愛がられることはないであろう。失敗すれば、いじめられて職場にいにくくなるかもしれない。
ギャンブルにハマる人がいるが、先輩に立てつくほうがよっぽど面白いギャンブルだ。
生き死に関わるギャンブルだ。
しかも成功か失敗かは即座にはわからない。
成功したと思っても、後で失敗だったと気づく場合もある。
失敗したと思っても、先輩が気持ちを改めて成功になる場合もある。
ギャンブルのように、すぐに結果がでない。
だからこそ面白い。
ギャンブルしてみたくないか?
そもそも先輩に死を覚悟でものを言う時点で、あなたの胆力が鍛えられる。
死を覚悟して行動を起こしているわけだ。
戦時中でいうと、相手に銃を突きつけているといった具合だ。
たとえ銃を発砲しなくとも、人差し指に力を込めれば相手を殺すことができるハラハラ感を味わっているのだ。
平和な世の中に生きながら、そんなヒリヒリ感、ハラハラ感を味わえるのである。
やらない方がもったいない!!!!
ゲーム好きな若者にも言いたい。
ゲームで人を撃ちまくって楽しむよりも、現実世界で楽しめ!
間違っていると思う先輩を言葉で攻撃してみよう!
そして攻撃されてきたら、ゲームと同じように銃弾を避けて、立て直してまた反撃しろ!
ゲームと同じだ。
しかもゲームであなたは死ぬかもしれないが、現実世界ではあなたは死なない。給料が減るか、嫌われるか、いじめられるかだ。いじめられたら頭を使って反撃していけばいい。これもゲームだ。
現実世界の方がよっぽどハラハラする。
ゲームに逃げ込むのはもったいない。