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ニワトリとタマゴとPOWER TO THE PEOPLEの本当の意味

今日、4月8日は統一地方選前半の投開票日の前日です。
つまり、候補者の皆さんにとって、
選挙活動ができる最後の日ということになります。

ここで、選挙に行こうと思っていない多くの人に、
気づいて欲しいことがあって、今日は書いています。

POWER TO THE PEOPLEという言葉があります。
ジョン・レノンが作った歌もありますね。

パワーというと、日本人にとっては漠然としたイメージがありますよね。
「力」という意味だと思っていますから。
しかし、英語では、パワー=権力という意味でもあります。

POWER TO THE PEOPLEは、権力を人々に、という意味です。

そしてこの言葉は、「民主主義」という政治システムを
たったひとことで言い表したものでもあるということです。

そこを感じ取っていただきたいのです。

私は個人的に「有権者」という言葉が好きではなくて、
「主権者」という言葉が好きです。

「有権者」と「主権者」は、よく似ているようですが、
実は意味がかなりちがっています。
主権者とは、国の在り方を決める人のことです。

そして、戦前の日本は、今の日本とはちがっていて
民主主義の国ではありませんでした。
その頃の日本は主権者はたった一人でした。

それが天皇です。

日本は天皇主権の国だったのですね。
天皇が国の方針を決め、国民はそれを実行するための
家来のような存在だったのです。

当時の日本人は国民ではなく臣民(しんみん)と呼ばれました。
「天皇の子」という意味です。

日本は大きな家族であって、そのお父さんが天皇だよ、
家族はお父さんに従って、家をしっかり守るんだよ、
というのが明治以降の日本の教えだったのです。

その根っこにあったのが「お父さんがいちばん偉い」という
「家父長制」であって、
自民党という政党がひたすらに夫婦別姓やLGBTに反対するのは、
この「家父長制」という根本が崩れてしまうからなのです。

1945年、日本は第二次世界大戦に敗れ、
占領国であるアメリカ(GHQ)によって、
つまり外的な圧力によって民主化されました。

戦争に負けたことが原因で民主主義になったということです。
天皇主権をうたう明治憲法が廃止され、
新しくつくられた日本国憲法(現行憲法)によって
はじめて国民主権が決められたのです。

この「国の在り方を決める人が誰なのか」ということが重要で、
今はそれが私たちになっているということです。

言い方を変えると、戦前までは天皇が一人で背負っていた責任を、
私たち国民全員で分担しているということも言えるのです。
私たちは1億分の1の天皇であるとも言えるのです。

さて、先ほど「有権者」と「主権者」はちがうと言いました。
日本は国民主権ですから、
主権者とは国民のことなのです。

国民というのは日本国籍を持ったすべての人ですから、
生まれたての赤ん坊だって主権者なのです。

それに対して「有権者」というのは、
政治参加する仕組みとしての投票権を持っている人という意味です。

今は18歳以上の国民ですね。
17歳以下の国民は有権者ではありませんが、主権者ではあって、
国の在り方、つまりこの国がどこへ向かうのか、
ということを決める役割を持っているということなのです。

冒頭で、POWER TO THE PEOPLEを引用し、
それは民主主義のことだと言いました。

権力を人々に。これが民主主義だからです。

そして今の日本のルールでは、
権力は我々の手にあることになっています。

その上でその権力を国家に預けるというカタチをとっているわけですね。
警察とか、裁判所とか、そのような国家権力は、ときに暴力を伴いながら
国民を国のルールにしっかりと従わせるための機能です。

では、我々が行使する権力とはなにか?
それが投票権になります。

いや、具体的には投票権しかないとも言えます。
デモをやったりする権利はありますが、
常時誰にでも与えられ、行使できるのは投票権です。

そしてここがとても重要なのですが、
権力の行使には、いつも責任が伴うということなんですね。

POWER TO THE PEOPLEとは、
同時にRESPONSIBILITY TO THE PEOPLEなのです。

権力を人々に!=責任を人々に!
この図式を受け入れなければならないということです。

権利には責任が伴う。

こういう言われ方を、日本人は生理的に嫌う傾向があると思っています。
そこが民主主義国家の国民として、
イマイチおとなになりきれない部分なのかなと思っています。

「権利は行使したいが、責任はいやだ。」
「どうしても責任が伴うのであれば、
 責任は欲しくないから、権利もいらない。」

そんな精神状況が見てとれるんですよね。
どう思われますか?

ここ数日、選挙に立候補している人のボランティアで
ビラくばりのお手伝いをしています。

そうすると、候補者のビラを持った私に
人々がどのような態度をとるか、ということがとても面白いです。

ビラを手に取ってくれる人は、ひとつの場所で5人ほどです。
それ以外の人はよくて「会釈して断る」です。

次に「無視」ですね。目を絶対に合わせないという態度。
最後に「邪魔だ」という攻撃的な態度。

そんなふうにわかれています。
多くの人は無視か、邪魔だ、になります。

私はそのような態度をとられても、まったく凹みませんが、
なぜならそれは、今の日本人の主権者としてのレベルを
街中で調査しているような気持ちでいるからです。

政治は自分のことです。
自分の暮らしと、命がかかっています。

それは「そんな場合もある」のではなくて、
完全にそうなのです。

そしてそのことから目を逸らそうとする日本のオトナたち。
このようなオトナが動かす社会がまともになる可能性は低いし、
危機的な状況を乗り越える力も低いのは当然なのです。

政治は主権者の鏡です。
日本の政治は腐りきっていますが、
それは主権者である国民が腐っているからに他なりません。

政治がおかしいことを政治家の責任にしている段階で、
システムを理解していないと言っているのと同義です。

身近に行われている、あなたに与えられた主権、
POWERを行使しなければ、そのPOWERは別の人に取られて
あなたの暮らしを奪っていきます。簡単なことです。

日本が変わるということは、日本の政治が変わるということは、
あなた自身が変わることに他ならないのです。

最後に、ニワトリタマゴの話をして終わりにします。

よく政治と国民の関係をニワトリタマゴの関係と言います。
どちらが先にまともになるべきなのか、ということです。

国民は政治家がクズだから政治に参加しないといいます。
政治家は国民がクズであるとラクなので、そのままにしておきます。
そのことで政治家はクズになります。

それらはループになっているので、
果たしてどちらが先に改善されるべきなのかという
責任転嫁の議論として、ニワトリタマゴ論は存在します。

しかし、肝心なことを忘れてはいけません。

タマゴは、ニワトリだということです。

タマゴはニワトリの一形態なのであって、
両方ともニワトリなのです。
人間に対して赤ちゃんとオトナはどっちが先か?などという
議論は存在しませんね?

タマゴが見た目の上でニワトリとちがうからといって、
ニワトリとタマゴを別のものだと考える前提がまちがっている。

つまり、政治と国民は同じものであって、
どちらかが先に変わるのではなく、同時に変わるしかないのです。

同時に変わるということは、
まず自分が変わるということと同義です。

統一地方選の投票日は明日、4月9日です。
後半には首長と市区町村議会選があり、23日が投票日です。

権力を行使してください。
責任を行使してください。

あなたはこの国の在り方を決める主権者だからです。

POWER & RESPONSIBILITY TO THE PEOPLE!!

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