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豊かさと人間の尊厳はバーターである、という問題意識

さて、今日はちょっと読解力を必要とする、
難しい話にトライしてみようと思います。

どれくら難しいかというと、
皆さんはナベツネさんのことをどう思っているでしょうか。
あの人は生粋の保守であり好戦的な右翼だと思っていますか?

ちがいますよ、ナベツネさんは
「日本国憲法では甘い!」というほどの反戦、平和主義者です。

勝手に作り上げたその人のイメージを覆すことができるかどうか、
ということと同じくらいの難しさです。

人は生きるているだけで価値があるのか。
人が大義のために命を捨てるということを、どう思うか。
そういう、非常にセンシティブな話です。

それでは、危険を恐れず行ってみましょう!

まずは、なんでこんなことを書こうと思ったかをお伝えします。
先日のNHKの日曜討論で、NHK党の党首である立花孝志さんが、
少子化問題について聞かれてこんな答えをしました。

「まず、子供を増やせばいいってものじゃなくてですね、
 子供の質の問題です。
 いわゆる賢い親の子どもをしっかりと産んでいく。
 サラブレッドでもそうです。速い馬の子どもは速い。
 プロ野球選手の子どもも普通、野球はうまいです。
 我々NHK党としては、まず子どもを産んだ女性に
 第一子だけ1000万円を支給する。
 そしていわゆる社会でバリバリ働いて納税されている女性に、
 いったん仕事を休んでいただいて、そして出産育児に専念していただく。
 社会保障っていうのは、結局は質の悪い子どもを増やしてはダメです。
 将来納税してくれる優秀な子どもを沢山増やしていくことが
 国力の低下を防ぎ、最終的に弱者を守れるというふうに
 考えております。」

この言葉、どう思いますか?
もちろん、とんでもない発言ですよね。
でも、これを立花孝志はとんでもない人間だ、ということだけで
思考停止して欲しくないのです。

この発言には、現代日本の様々な課題が含まれており、
しかもそれはすべてがつながっているのです。

言葉を選ばす言いましょう。
ここにあるのはいわゆる「スジがいいこと」と、教育、
そして、家庭環境と、貧困、人の意識の高さ。そんな問題です。
そしてそれらは密接にリンクしており、それが解決されない限り、
日本に未来がないということそのものは、実は正しいんですね。

大丈夫でしょうか?
もう少しお話を進めましょう。

ひとつひとつ話します。
立花氏は「子どもの質」とか「賢い親」と言いました。

「子どもの質」なんて言うとそれだけで差別的ですね。
でも、人間の質って実際に存在していて、
そこから目を背けると原発神話のように問題が解決しないんです。

だって教育って、
子どもの人間としての質を上げるために施すことですから。
だから私は敢えて言います。
すべての子どもたちが、「その子なりに」最高の質になるように、
高めていってあげること。それが必要です。

そこまでは同意できますか?
重要なのは「その子なりに」ということです。
何が得意で、何がきっかけかなんて、それぞれちがいますからね。

障害があったり、気質的な性質があったり、本当に状況は様々です。
だからこそ、他の子と比べるという意味ではなく、
あくまでも昨日の自分と比較して、その子の人生がより豊かになるように、
心身の成長を促すのが教育だと思うんですね。

教育は本当にだいじです。実は国づくりの中でいちばん重要だと思います。
国防なんかよりずっと。

さて、「スジがいい」という子は実際に存在します。
才能とか、運動神経とか、反射神経とか、いろんな要素があります。
当たり前ですね。

ただ、それは本当に生まれついてのものの場合もありますが、
環境によって、後から備わるものもたくさんあります。
脳は環境に適応しますからね。

では、子どもの成長にとっての環境とはなんでしょうか。
それは家庭環境であったり、経済的な状況だったりします。

親がスポーツが大好きだと子どももスポーツが得意になりやすいのは、
子どもの頃からスポーツが身近にある環境で生まれ育ったからです。
音楽でも芸術でも、みなそういう側面があります。
家庭内からのインプットが、その子の成長に大きく影響します。

逆に言えば、親が何にも関心がなかったり、興味のあることがない場合、
子どももそれに影響を受け、
家庭内でのインプットがないことが当たり前になります。

親が大学を出ていれば、大学は出るものだ、と思いやすいし、
そうでなければ、それほど必要性を感じない。
周りの人が高学歴の人ばかりだと、それを当たり前に感じる。

そういう効果は現実にあります。

そして問題なのは、経済状況が困難になると、
人はあまり多くのことを考えたり、
意識したりする余裕がなくなるということです。

経済的に恵まれていない家庭の親は考える余裕がなく、
その影響で子どもも思考することが苦手な子になる。
そういう悪循環が貧困から脱することを
難しくしているという現実はあるのです。

そこから目を逸らしてはいけません。
どんなにスジがいい子でも、それを見つけ出し、伸ばすのは大人であり、
それを許す環境なのです。

そういう問題がこの社会には厳然と存在している。
そして、課題に対してどのように向き合うかとい方法には、
根治療法と対症療法があると思います。

根治というのは、そのような状況が起こることそのものを治すこと。
対症療法とは、目の前にある状況だけに対応するもの。

立花氏の言説は、その後者だ、ということなのです。
もちろん私はこれでは問題の先送りになるだけだと感じるので
まったく賛同はしませんが、彼を批判するのであれば、
ちゃんと問題の本質から目を逸らさない覚悟は必要です。

それは「根治を選んだ」ということだからです。

ネット上などを見ると、現状、この立花発言に対して、
とんでも発言だ、優生思想だ、というバッシングが吹き荒れています。

もちろん、私もこの発言そのものには賛同しませんが、
この手の話のときに、私はいつも思うのです。

人は生きているだけで、本当に価値があるのだろうか、と。

そう書いたからと言って、
私が「生きているだけでは価値がない」と思っている、
とは決めつけないでくださいね。
私は「一律には言えないのではないか?」と思っているのです。

生きているだけで価値があるというのは、
生きてさえいれば良いという考えに結びつくように
思えてしまうからです。

それとですね、この手の話になった時に
すぐに騒ぐ人は一定数いるわけですが、
そういう人は決まってこう言います。
「人間の価値は誰が決めるのか?」と。

私も、ここが重要だと思っているんですね。
で、こういう話をするとき、
誰もが「自分の価値を誰か別の人が決める」という前提で
怒っている気がするんですよ。

私はそこがまちがっていると思っています。
自分の価値を決めるのは、自分です。
他者が決めるという話だと思うからおかしいのであって、
自分で決めるという意味では、生きている価値というのは
存在していても良いと私は思っているわけです。

むしろ存在していなくちゃいけない。
自分の価値を決めるのは自分なのだ、と言うのであれば、
自分で自分の価値が納得できるように、努力しなくちゃいけませんよね。

では、生きている価値ってなんでしょうか。
それはわかりません。誰にも。
というか、決められません。絶対の、唯一無二の答えがないからです。

まず、その現実を認めるべきだと思うんですね。

それともうひとつ、さらにものすごくセンシティブな話をしますが、
人は「生きていること」がいちばん重要なのでしょうか?

命が大切なことは疑いありませんよね。
では「命=生きていること」なのでしょうか。
もちろん、基本的にはそうだと思います。
でも、それはいついかなるときも絶対のルールでしょうか。

私にはそれがわからないのです。
我々日本人が「生きていること」にあまりにも深くこだわるのは、
まちがいなく、先の戦争があったからだと思うんですね。

国の方針によって、自分の命の使い道を勝手に決められてしまう理不尽さ。
平和に生きていればどんな経験ができたかわからないのに、
若くして戦場で死を向かえなければいけなかったたくさんの若者たち。
戦場でなくても、多くの人が戦禍に巻き込まれて亡くなりました。

その反省から、その悔しさから、
我々日本人は「命以上に大切なものはない」と思うようになったし、
「生きていることこそが最も尊い」と思うようになった。
日本の戦争の大義名分が「天皇のため」だったことで、
「大義のために犠牲になること」ということが
絶対にあってはならないことになったと思います。

私も、国家によって大義を押し付けられることは、
絶対に容認できません。
自民党の政治家なんかに命令されて死にたくないですよ。

しかしですね、例えば、ものすごい理不尽を国が私たちに強いる場合、
その理不尽に抵抗しようとして、
命がけで戦わなければいけないようなとき、
生きていることだけを重視したり、
大義の犠牲になることを絶対悪としてとらえると、
誰も立ち上がらない社会になるんじゃないのかな?と思うんです。

これ、伝わりますか?

「命がいちばん大切」なのである場合に、
「命=生きていること」と定義されるのであれば、
例えば国家の横暴で、
「生かしておいてやるが自由はない」という条件下では、
その理不尽に従って奴隷のように生きることになりますね。
自分の生き方を守るために、命をすてる覚悟で立ち上がる、
という可能性はほとんどない社会になります。

例えば、ものすごい経済発展の恩恵を受け、
物質的には何不自由なく暮らせるとします。

しかし、何を考えて良いか、ダメかは、国が決めるとします。
思想の自由がないということですね。
国が許す考え方をしない人間は、投獄され、拷問され、処刑される。

精神的な自由は一切ないのです。
そういう状況だった場合、あなたはどう思いますか?

好きなものは食べられる。
好きなアイドルタレントを見て楽しむ自由はある。
娯楽もなんでもある。
でも、政治的なことを少しでも考え、
支配層に何かモノを言うのは絶対にダメだったとき、
つまり普段は意識されないけれど、見えない鎖に繋がれた奴隷であるとき、
あなたはどう思いますか?

これは価値観の問題です。

何の価値観か?というと、「人間の尊厳」を
どのように捉えているか、ということです。

現代の人間社会を観察していると、
どうやら物質的な豊かさと心の自由はバーターなのです。

この参議院選挙の期間、東京選挙区から出馬し、
毎日、首相官邸の前で、たったひとりで演説をしつづける女性がいます。

「沖縄の米軍基地を東京へ引き取る党」の
なかむら之菊(みどり)さんです。

彼女は日本政府に対して、沖縄基地問題を通じて、政府の在り方、
アメリカに従属し続ける日本人としての態度について、訴え続けます。
その主張は、多くの人にとっては必要なものではなく、
やらなくていいものです。

沖縄に住んでいなければ、沖縄基地問題の害悪は
多くの人には直接的に関係ないように見えるからです。

でも、なかむらさんにとって、それは関係があるのです。
我がこととして受け止める感受性があるからです。
その感受性は、多くの人の目には見えない鎖が、
自分の首に繋がっていることをひしひしと感じさせるのです。

それは、日本人に人間としての尊厳を認めないという鎖であり、
意識しなければわからないけれど、
私たちには日本人として当然のアイデンティティを持つことを否定され、
そのことに気づかないか、目をそらし続けるという態度で
自ら自分の尊厳を安値で手放してしまっている同胞たちに対する
心の訴えなのだと思うのです。

程度の差こそあれ、私もそれを感じてしまう人間なのです。
私には本当の自由はない。そのことに気づいた時、
自分の人間としての尊厳が奪い取られていることに気づくのです。

それを取り返そうとすることは、
ただ生きているだけとはちがう困難な道を選ぶことを意味します。

しかし私は、なかむらさんのような人にこそ、
人としての質の高さを感じています。
人間の質は、厳然と存在しています。

誰もいない国会に向かってマイクで叫ぶなかむらさんに近寄り、
「誰も聞いてないよ」と言った人がいました。

バカにしたような態度でした。
価値観の違いでしょうが、私にはそう見えました。
これは気候変動の問題などとも似て、
すぐに感じられない変化に対して声をあげる勇気を持つ人を
冷笑する人間というのは存在しています。世界中に。

なかむらさんだって、日曜日の、閉会中の国会に向かって叫んでも、
誰も聞いていないことは、もちろんわかっているのです。
しかし、それでもやる、というところに、「尊厳」があるのです。

その言葉は、国会ではなく、
私たちひとりひとりに向いているものだからです。
とても高い人権意識に根差したものだからです。

人間の尊厳というのは、合理性や、
ましてや経済合理性では語れないゾーンにあるものです。
どんなに金を積まれたって首を縦に振らない。
そういうときにあるのが、人間の尊厳ではないでしょうか。

そのとき、心の背筋はピンと伸びています。

私は平和主義者なので、戦争が起こって人が死ぬことは
たった一人であっても許容はできません。

しかし私は、平和主義者であると同時に、人道主義者でもあるので、
人間は生きてさえいれば良い、とも思っていないのです。

どのように生きるかを他者に決められること。
そこには人間の尊厳が存在しません。

自分はこの道を生きるんだ、という信念を持つことを、
他者が剥奪することはできません。

もちろん暴力とか、他者のものを奪うとか、そういうことは許されません。
そういう意味ではなく、人生に質というものは絶対に存在していて、
それは自分の尊厳が守られているかどうかで決まると
思っているということです。
そしてもちろん、それを決めるのは自分自身です。

他人が指一本触れることはできません。
国家も、宗教も、です。

私は、今の自民党によって憲法が変えられてしまって、
人の尊厳を屁とも思わない国になっていくのであれば、
そんな国にはいたくないし、
そんな社会で生きる価値はないと思っています。

生きていられれば価値がある、とは思っていません。
この微妙なニュアンスを理解できるでしょうか。

立花孝志さんが言ったこと、その内容の半分は、
残念ながら現実社会を言い表していると思っています。
だから、その内容に反論するのであれば、
やはりそこには社会的な大義が必要になるのです。

その大義は、ダメな子はダメなままでいいんだよ、
だって生きているだけで価値があるんだからという
消極的な現実容認ではなく、
自分が本当に幸せになれる方法を見つけよう、
それは人それぞれ、みんなちがうんだよ、と教えるべきだと思うのです。

自分の人生を、より納得のいくものにするためにです。

我々には生きているだけではなくて、人間の尊厳を保って生きられる、
ということが必要です。
そして、幸せになるために、自分の生き方を守るために、
ちゃんと戦う意識を持たなければ、
権力はあっという間にそれを奪い去っていきます。
尊厳というのものは、今のところ、簡単に蹂躙されてしまうものですから。

その意識は必要なのです。

そのとき「生きているだけで価値がある」という言い方は、
逃げの方便にも利用できるのです。
逃げるのは、大人ですよ。行政のほうですよ。

人間は納税するために生まれてくるのではありません。
お金を稼ぐ力で価値を判断されるのは、人間の尊厳に反します。
そういう意味で、私は立花さんの意見には反対ですが、
現実社会が彼の言う通りになっていることには、危機感を感じます。

さて、ここまで私の意見を読んでみて、
私を優生思想だと思いますか?

私が伝えたいのは、誰でも優れた人間になれるということ。
それを邪魔するのは社会課題であり、解決しなければならないということ。
そして、優れているとか、価値がある、ということを決めるのは
決して他者ではなく、またそれは他者との比較から決まるのではなく、
自分自身で決めるものです。

人は成功するためではなく、成長するために生きているのですから。

どうでしょう。
私が本物のアンチ優生思想だと理解できましたか?

今回は、そこがいちばんの難問だったかもしれませんね。

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