量子力学から(勝手に)導き出した、孤独関数の発見。
今朝、目が覚めてから量子論について考えていて、
思考を巡らせていたときにあることに気がついたので、
その情報をシェアしてみようと思います。
量子力学というのはものすごく不思議です。
量子力学とは、目に見えないほど小さなものの世界の物理学ですが、
それがどのように不思議かというと、
「そんなこと、あるわけないだろう?」と言いたくなるような出来事が、
ミクロの世界では本当に起こっているのです。
しかもそれが現実であって、私たちの体も、
意識を作り出している脳も、それらの物質からできているわけです。
量子力学なんて、変わったことを考えている人たちの
変わった研究であって、
「私たちの日常とは無関係よね?」なんて思ってしまいがちですが、
そういうあなたの存在自体が量子力学の世界の延長線上にあるはずで、
あなたが「関係ないよね?」と思うこと自体も、
感情などというおおよそ科学とは思えない人間の不思議さでさえ、
科学現象そのものだといことです。
SFという言葉はサイセンス・フィクションの略ですが、
つまりSNF、サイエンス・ノン・フィクションなのです。
※
さて、今日の本題はここからです。
私が量子論の本を読んだり、動画を見たりして、
自分なりの考察をしたり、思索をしていると、考えというのは
どんどん深まっていきます。
「○○○ということは、つまり×××ということか!ん?だとすると・・・」
を繰り返しているうちに、
最初にいた場所からはかなり遠い場所に来てしまう。
もはや、どのような思考経路を通って
そこに辿り着いたかを考えるのも面倒臭い。
ただ、思考の赴くままに突き進んでいくと、そういうことが起こる。
そうなると、
「今考えていることを誰かと話したいが、理解する人はいないな」
という感覚が生まれてくるわけです。
誰かに話して共有したいが、そういう人が見当たらない。
もし話したときに「考えすぎだよ」とか、
「まぁまぁ、そんなこと考えても仕方ないからさ」などと言われたら、
と想像するだけで、気持ちが閉ざされてしまう。
なぜなら、私が考えていることは空想ではあるが完全な空想ではなく、
事実の範囲の中にあるできごとだという感覚があって、
それを理解しない人の方が、
自分が乗っている船の底に穴が開いているのに、
「まぁまぁ、そんなこと気にしないで」と言っている人に見えてしまう。
私がさっき気づいたのは、
これが「孤独」のメカニズムなのだ、ということです。
※
シュレーディンガーの波動方程式ならぬ、
孤独方程式あるいは、孤独関数というものがありそうな気がしてきたのです。
(知らないだけで、もうあるのかな?)
物事を深く考えていくと、人は孤独になっていく。
それは同じくらい考えている人が少ないからであって、
共感できる人がいないからである、ということ。
仕事の出前授業で様々な小学校を訪れるのですが、
そういえば、この子は頭脳が本当の意味で優れているな、とか、
この子は発想が豊かで面白い子だなと思う子は、
不思議と仲間がいなかったり、普段は不登校だ、という子が多いのです。
そういう学校に馴染めない子というのは、思考のレベルが深い場合が多い。
そんなことを思うんですね。
この孤独関数は、おそらく絶対的な思考の深さだけで表れるものではなく、
その人が期待される思考レベルに対して、
相対的に思考が深い場合にも出ます。
例えば独居老人とか、ホームレスの人とかに、何を考えているか
聞いてみたことがある人は少ないでしょう。私もです。
でも、彼らだって必ず何かの考えを持っています。深い考えを。
しかし、周りが彼らに対して「深い考えを持つ可能性」というものを
まったく期待していません。
そういうときに、彼らは思考の共感性の欠如を感じて孤独になる。
仕事ができないと言われて会社の中で浮いているあの人だって、
そうである可能性があります。
※
以前、介護に関することでも書いたのですが、
訪問介護を受ける老人は、怒りっぽい人、気難しい人が多い、
ということを聞いたことがあります。
私はそれは介護というものそものが、
介護を受ける側の人間の尊厳を傷つけているからではないか?
と思っています。
具体的にいうと、老人を赤ちゃんのように扱うことです。
小さな子供に対してのように、老人に話しかける人が多い。
もちろん、耳が遠くなったり、反応が鈍くなって、
そのような扱いが適切な場合もあるでしょう。
しかし、意識はちゃんとしているのに、
体がうまく動かせないことによって、
ステレオタイプの「何もできない老人」という箱に押し込まれ、
「おじいさん、仕方ないわねぇ」なんて言われたなら、
それはもう怒りしかないわけですよね。
俺の方が人生の先輩なのに、いろいろな経験をしてきて、
いろいろなことを知っているのに、
何も知らない幼児のように扱われる、という屈辱です。
しかし体も口も思うように動かないから、
自分の思いを発信できない。伝えられない。そのもどかしさ。
不自由な「自分」という箱の中で、
自分は誰にも理解されずに死んでいくしかないという絶望感。
若いうちは自分の肉体と精神は一体のものだと思い込んでいるが、
精神に比べると肉体は先に老いるようなので、
だんだんと両者の間に乖離が発生する。
しかしそれは若い世代の人間には理解不能であって、
つまり自分のもどかしさを理解し、共感するものがいないということ。
そのことが生み出す孤独感。
そんなこともあるのではないでしょうかね。
※
つまり私が気づいたのは、自分の意識を共有できる人がいない、
ということこそが孤独感であり、
それは自分の気持ちがわかる人の絶対数の多さと関係しているということ。
人より深く考えたりすると、必然的に孤独になっていくということ。
会社の中で偉くなっていくと孤独になるということも聞きますが、
これも同じ現象だと思うんですね。
会社では人は「立場」を伴うわけで、
上の立場になるほど人数は少なくなり、共感性は少なくなり、
孤独に耐える必要が出てくるということ。
ヒエラルキーのない社会ほど
孤独感が少ないということもわかってきていますが、
それは自分の意識に共感してくれる人の多さという意味なのでしょう。
逆にいえば、人は深く考えることを面倒くさがるという性質と、
一人でも多くが共感するというボリュームゾーンに合わせて作られる
民放テレビのワイドショーなどは、
必然的に人間から思考を奪うということでもあります。
それは多くの場合「現実から目を逸らす」ということによって成されます。
人は不都合な、見たくない現実から逃げたいですからね。
でも、現実はそこにあります。
これもまた量子論的にいえば、
重ね合わせの確率の状態なのかも知れませんが・・・。
※
孤独関数というものが存在するとして、
それは物事を深く考えれば考えるほど孤独になっていく
というものだとします。
するとノーベル賞などをとるような学者さんたちは、
孤独を恐れぬ強さを持っていると思うし、
それは「自分がそれを知りたいのだ」という強烈な好奇心、
興味関心力によって孤独を克服しているようにも思われますね。
書店に行けば「孤独を恐れるな」的な本も多数ありますが、
(読んだことはないのですが)
それは自分のユニークさによる必然なのだから、
良いこととして受け入れろ、ということかも知れませんね。
もし今、あなたが職場で、学校で、孤独を感じるなら、
それは他の人とはちがう感じ方ができるからであって、
それはその組織や集団が進化するには必要なことなのです。
人類の進化、科学の進化は、
いつだって「常識外れな意見」から始まっていますから。
(但し、それは事実である必要はありますが)
しかし、思うのですが、
この思考に関する孤独関数を変える方法として、
多くの平均的な人が考える度合いを、今より少し深くする、
という手段もあるはずだと思うんですね。
そういうことをしないと国力が弱まるので、
日本もここ数年の教育現場で急激に
アクティブ・ラーニングとかクリティカル・シンキングといった、
「自分のアタマで考える」という思考法を身につけさせようとしています。
こういうことが身を結んでいったなら、孤独関数は少し緩やかになって、
今までは不登校になったような
ユニークな思考のできる才能溢れる子供たちが
学校でその力をどんどん伸ばせるようになるかも知れませんね。