五輪が露呈させたもの:日本の人権意識の遅れ
さて、あと二日で、あれほど騒ぎになっていた
東京オリンピック2020も終わります。
競技会場の多い東京・江東区に住んでいる身としては、
やっと少し落ち着ける感じがします。
それでなくてもコロナでピリピリしているのに、
五輪の厳戒態勢で町全体がものものしい雰囲気になっています。
この嫌な雰囲気は、たぶん、地元民しか感じないものでしょう。
(地元民にも様々な感情があるでしょうが)
振り返ると、とにかくこの五輪は、
招致当初から本当に問題に次ぐ問題の連続でした。
細かくは列挙しませんが、いろいろありましたよね。
そして、後半、つまり開催間近になって連鎖的に起きた問題の多くが、
「人権」に関わる不祥事でした。
私はこのことに、少し注目したいのです。
というのは、日本人の人権意識のレベルが、
世界に対して著しく遅れていることが露呈したからなのですね。
※
人権意識というのは、「これで完成!」という状態はなくて、
今この瞬間も世界中で、ものすごい速さで「開発」されています。
それは人間が新しい意識に気づいていく過程なので、
新しい常識が、毎日どんどん生まれていっているわけです。
昨日まで差別ではなかったことが、
今日は言ってはならないことになっている。
好むと好まざるとにかかわらず、そういう現実が起きている。
すると新しい意識が当たり前の常識になって、
それを土台にさらに新しい意識が生まれる。
もしかするとこのまま過剰になりすぎると、
ものすごく息苦しい社会になる可能性もあります。
他人を思いやる気持ちと、他者を許さない不寛容の両方が折り重なって、
今の人権意識は醸成されている部分もあると思うので、
とにかく、バランスが大事だと思うのですが、
その「最適なバランス」がどこなのかは、まだ誰にもわかりません。
ただ、人権はもちろん何より大事なことなので、
日々模索し、進化させていく必要があると思うんですね。
それに対して、日本人はどうしているでしょうか。
特に何も意識していないんじゃないでしょうかね。
だから、90年代くらいの感覚のままの人がとにかく多い。
それがこの五輪を通じて、よくわかったと思うのです。
※
先日、最近のアメリカでは、黒人だけでなく、
ラテン系の人々や中東の人々の権利を擁護する動きが
活発化してきているという情報を聞きました。
もちろん全体としては根深い人種差別があるわけですが、
一見してわかりやすい差別が存在しているからこそ、
その反作用としての人権意識への注目も集まるわけですよね。
それに対して、日本では、語弊を覚悟で言えば、
見た目からしていかにも外国人、という人は少なく、
それに起因していると思いますが、
中国人や朝鮮人への差別意識というのは、確かに存在しているはずなのに、
地下に潜っているというか、パッとみに見えにくい状況にある。
けれど、だからこそ、手に負えない部分もあるように感じるのです。
先日、IOCのバッハ氏が「ジャパニーズ・ピープル」を誤って
「チャイニーズ・ピープル」と言ってしまったことが話題になりました。
そのとき、ネット上などでは「差別だ!」という声がありました。
さて、この一件をうけて、あなたはどう思うでしょうか。
私は五輪を巡るバッハ会長の態度そのものに違和感を感じていましたので、
彼が我々を呼び間違えたことに関しては、正直腹が立ちました。
しかし、それはコロナ禍における開催地・日本人の
国民感情を理解していない、ちゃんと寄り添う気がなく、
いい加減な感覚でいるのではないか?と感じたことが理由であって、
決して「中国人と間違えたから」ではありません。
バッハ氏はあのとき、「誰とも間違えてはいけない状況」だったのです。
そこで間違えたことそのものに誠実さの欠如を感じた、ということですね。
けれど、多くの人が「中国人と間違えた」ということに立腹していました。
それはつまり「中国人と一緒にするな!」という意味になります。
これは、日本人側に差別意識があるということに他ならないですし、
五輪開催国の国民として、あってはならないことだったと思うんですね。
皆さんは、どう思われるでしょうか。
※
最近、すごく思うのです。
日本は島国だからなのか、やはりかなり独特な文化や思考が発生しやすい。
それがいい方向に向かう場合ももちろんあると思うのですが、
今は、それが原因となって、国際社会の流れから
取り残される傾向にあると思うのです。
それは状況が、一見、半端に良いからだと思うんですね。
例えば世界の街は日本より清潔ではない場所が多いのは確かです。
だから「もっと衛生的に」という指標がある。
差別も同じですね。
貧困もです。
日本は、それらの問題がわかりやすく顕在化されていない。
でも外国と同様に日本にもそんな問題はいっぱいあるんです。
一見して問題が見えないことが原因となって、
本当は存在する問題を直視することを避けてしまいやすい傾向が
日本にはあると思うんですね。
外国の人々が持っている問題意識を共有できないからです。
現実として、国際社会でどんどん進んでいる人権意識に、
日本はまるで追いついていません。
このままでは、これからやってくる地球規模の課題解決のために
世界が一丸となっていくフェーズがやってきたときに、
日本だけが抜けきらない差別的な主張をして、足をひっぱりかねない。
そんな不安をおぼえるのです。
このコロナ禍の影響も・・・、
それはつまり絶対的な感染者数や死亡者数のことですが、
それらがなぜか日本では少ないことが知られています。
特に日本が際立っていい対策をしたわけではないのに、
事実、欧米に比べて桁がひとつ少ないですね。
でも、そのことが原因となって、
日本だけがダラダラとコロナ禍をつづけてしまう危険性を懸念しています。
それは「問題が見えないことから生まれる楽観主義」が引き起こします。
そしてそういうことが人権意識の面においても起こると思うんですね。
いや、それが事実起きたのが、
今回の五輪の様々な不祥事なのだと思うのです。
※
たくさんの人が、この五輪の任をおいながら、
人権意識の欠如を原因にして去って行きました。
それらは日本の中だけの単なる芸能ネタではなく、
国際社会に対してこの国の精神レベルがどのあたりなのかということを
知らしめるできごとだったわけです。
果たして、我々日本人ひとりひとりの中に、
そういう厳しい認識があるだろうか。
そこを問うてみるべきだと思うんですね。
感染者の数が、相変わらず爆発的に急増しています。
8月後半からのパラリンピックはどうなるのでしょうか。
その前に、8月15日、敗戦の日があります。
目の前にオリンピックがあったら
他のことをすべて忘れてしまうのではなく、
ちゃんと日本人として歴史を背負い、
地に足をつけて、これからの社会の中で何をしていくべきなのか、
我々自身が考え、判断し、行動していかなければいけません。
日本人から誠実さをとったら、いったい何が残るのでしょうか。
日本人が人類に貢献できるのは、物質的豊かさの追求ではなく、
本当は精神性の大切さを体現することなのでは?
長いこと、そう思ってきましたし、
SDGs時代に入った今、
ようやくその価値観に光が当たりかけているというのに、
もはや日本人が誠実だったのは遠い過去の話になったようです。
そのことに心からの歯痒さを感じています。
このまま、昔、誠実だった、
今はなんの取り柄もない国になっていったなら、
我々は、国家として足場を失って心を病んでしまうのではないでしょうか。
五輪というスポーツ大会そのものの意義ではなく、
五輪の開催に取り組んできたこの数年間が、
我々に何を気づかせているのか。
そのメッセージに、耳を傾けるべきです。