「丁寧に生きる」ということ
いよいよオリンピックが近づいてきましたね。
リアルに大会の様子を想像すればするほど、
「これはやってはいけないことだ」と感じます。
それは、大会後の日本を混乱に陥れ、
またオリンピックそのものの存在意義をも
無に帰させる可能性があるからです。
※
ずっと考え続けてきました。
確かそれは、2003年くらいから。
「このままではいけないはずだ」と。
そして、このままでは大変なことになる、
と感じてきたことが、どんどん現実になっていく中、
何度かの劇薬が投与されました。
リーマンショックがそれであり、東日本大震災、
それに伴う原発事故も、そのひとつでした。
しかし、世の中は変わらなかった。
いや、むしろ、その大きなショックをまるで都合のいいことに変換して、
悪循環への道をどんどんひた走ってしまいました。
そんな中、何年も何年も、ずっと考えてきました。
そうして、昨年、人類にかつてないサイズの劇薬が投与されました。
当初このウイルスは、お金も地位も立場も関係なく、
何人にも平等に襲い掛かることで、
我々にメッセージを発しているものだと解釈できました。
しかし、時間が経過するにつれ、やはりこのウイルスでさえもが、
「地位や立場に関係している」ということを明らかにしました。
私たちは、今こそ感じ取らなければいけません。
※
そのメッセージは、お金に、これ以上、
魂を奪われてはいけないということです。
人間が今日も地球を破壊しつづけるのは、
差別をしつづけるのは、殺し合いをつづけるのは、
「お金」が原因です。
もっと詳しくいうなら、それは「金利」なのですが。
お金は、イコール経済であり、経済はイコール人の欲望です。
そして、人の欲望活動が、この世を終焉に至らしめようという中で、
やっとSDGsなどの動きは出てきたけれど、そんなことでは到底遅い、
というのが、このウイルスが発しているメッセージです。
今までのルールを、今すぐやめろ、と、このウイルスはせまります。
このウイルスは、全人類に、端的に、
経済活動の鈍化を要請しているのです。
さぁ、我々はいま、どうすればいいのでしょうか?
ずっと考えてきて、私の中にはひとつの答えがあります。
それはすべてに共通するものなので、多分に抽象的なのですが、
いま、私がたどり着いた、究極的にすべての解決策を提示する言葉です。
それは、
「丁寧に生きる」
ということです。
※
例えば、人の肌をさするときでもいいでしょう。
丁寧にさする、というのと、荒っぽくさするのとでは、動作がちがいます。
その動作のちがいは、実は「こころ」のちがいだと思うのです。
金利の返済に追われる経済社会の中で
ずっと浮き足立ってきた人類に、
このスピーディな社会の中で、
指先まで神経を行き届かせる、ということを怠ってきた人類に、
いま、提言しているのだと思います。
いい加減にやってはいけない。
適当にやってはいけない。
乱暴にやってはいけない。
もっと丁寧にやりなさい、と。
もっと丁寧に生きなさい、と。
「丁寧に」と考えると、すべての行動は変わってきませんか?
私はそう思うんです。
今、手洗いやうがいが励行されていますが、
そういうものも、丁寧に生きようと思えば、
例えば脱いだ靴を揃えるくらいに当たり前のことだと思うのです。
もっと丁寧に考えて、もっと丁寧に判断して、
もっと丁寧に行動しましょう。
それがこれからも地球の上で人類が生きていく上で、
課せられた交換条件なのだと思うのです。
私は「丁寧に生きる」という言葉にたどり着きました。
あなたは、あなたの言葉で、それを見つけて欲しいのです。
いつでも立ち返ることのできる、
判断基準や、行動規範となる言葉です。
※
もう遠い過去のような気にもなりますが、
コロナ禍の最初期に、志村けんさんがお亡くなりになりました。
本当にショックでしたが、あのとき感じた気持ちを忘れてはいけません。
すべてが、何かのメッセージを発しています。
甘く見るな。いい加減に考えるな。
そういうことを伝えているんじゃないでしょうか。
これから、本当にオリンピックは開催される可能性があります。
我が国の総理大臣は「バブル方式はできると思う」と発言しました。
「思う」ではダメなのです。
そして、コトの成否を握るのは「最後まで丁寧にやりきれるか」
ということにかかっています。
今の政府を見ていると、丁寧さが欠如しています。
それを受け入れる国民にもまた、丁寧さがなくなっている。
かつて日本人が大切にしてきたこと。
それが「丁寧さ」なはずです。
その価値観は、これからの人類に普遍のものでしょう。
我々は、もういちど「丁寧な生き方」を見直すときなのだと
心から感じています。