時間とはなんなのか。
今日は「時間」について、考えてみたいと思います。
なぜなら、我々が悩む生き物であるその原因のひとつが
「時間」という概念だからだと思うからです。
だから「時間とはそもそもなんなのか」ということを考えてみたいのです。
まず、我々は我々だけのモノサシで生きている、という事実を
認識すべきだと思うのですね。
ハムスターは2年ほどの時間で一生を終えます。
とても短い時間しか生きられないので「可哀想」と思う人もいますが、
彼らはものすごい速さで脈を打ち、彼らの速度で生きています。
クジラやゾウなどの大きな生き物は、ものすごくゆっくり拍動しているそうで、
どんな生き物も生涯に心臓が打つ脈拍の数は同じくらいだそうですね。
恐らく、どんな生き物も同じくらいの時間の長さを生きているのでしょう。
それぞれの時間感覚としては、です。
そしてそれは、それぞれの生物としてのサイクルの速さによる。
それを人間が決めた「物理的な時間」というひとつのモノサシに照らすと、
短く見える時間や長く見える時間があるだけなのだと思います。
地球の歴史は46億年でしたか。膨大な時間に思えますが、
それだってあくまでも人間が決めたの時間単位での話です。
宇宙の視点では一瞬の出来事なのかも知れない。
時間というものはそれぞれの主観的な感覚に委ねられたものなんですね。
子供の頃に感じる1年と、
大人になってからの1年の感覚が明らかにちがうのも、
そのような生物としてのサイクルの変化と関係があるそうです。
※
宇宙というものがビッグバンから始まった、という話は、
多くの人が聞いたことがあると思います。
あるいは、宇宙は今も膨張しているという話も、
聞いたことがある人は多いでしょう。
もし宇宙に始まりがあったり、
宇宙の大きさというものがあるなら、
宇宙と宇宙ではない場所の境界はどうなっているのか。
宇宙ではない場所とはどんな場所なのか。
そんなことを考えたことがある人はいるのではないでしょうか。
私たち人間は、どうしても自分の意識の中、
脳の中で想像したり、考えたりしやすいこと以外は
イメージすることが難しいですよね。
だからどんなことも、
自分の頭の中にある既存の何かで例えて
物事を理解しようとする性質があるように感じます。
宇宙の存在があるなら、宇宙の外側があるはずだと。
宇宙の外側があるということは、
ビッグバンが起こる前という状態があるという意味です。
今、部屋の中で何かが爆発するのを見るときに、
その爆発がビッグバンだとするなら、
その爆発が起こる「部屋」があるわけで、
その「部屋」が、宇宙の外側ということになります。
そういう風に想像すると、ビッグバンより前から存在している何か、
それは「場」とでもいいましょうか、
何かそんなものが存在していると考えます。
私は以前、そんなふうに考えていました。
でも、どうやらちがうらしいです。
我々が暮らすこの世界というのは3次元+1次元の世界です。
3次元というのは、縦と横と高さですね。
+1次元というのは「時間」のことです。
空間と時間の掛け合わせで、我々の世界はできています。
そして、ビッグバンより前はどうだったのか?と考えることは、
現象を時間軸上で捉えようとすることですよね。
時間軸の概念があるから「ビッグバンより前」というものを
考えようとするわけです。
これはホーキング博士の著書に書いてあったことですが、
その「時間」そのものが、ビッグバンによって生まれた、
というのです。
イメージできますか?
ビッグバンとともに我々の世界を司る「時間」の時計のスイッチが
オンになった、ということです。
ビッグバンより前には時間というものが存在しなかったので、
「ビッグバンより前」は存在しない。
え?時間が存在しないってどういうこと?
時間という軸の中に暮らす我々には、それは体験することも
想像することもできないものですが、
少なくとも、我々が認識できる時間軸上では、
それより前はないということです。
100メートル走で例えるなら、
レースそのものはスタートのピストルで始まるわけですが、
ピストルがなる前のレースはどうだったの?
と聞いているようなものだ、ということですね。
気持ちはわかります。
だって選手がウォームアップしたり、
緊張の面持ちでスタートラインに着くシーンがありますからね。
でも、それはそれらが我々が認知する時間軸上で行われるからで、
レースそのものはまだ始まっていません。
もし、我々にはピストルが鳴った後の
ランナーが走っている様子しか認知できないとしたら、
「スタート前はレースがどうだったの?」という質問は存在できない。
スタートしていませんから。
それと同じことなんですね。
時間を含め、我々が生きるこの世界というものが
ビッグバンによってスタートしているから、
それ以前は時間そのものがない。
我々が生きているこの世界を司るすべてのルールが、
ビッグバンをきっかけにスタートしているということですね。
おもしろいですね。
じゃ、この世とはいったいなんなのでしょうね。
※
今日、特に注目したいのは、時間という概念が、
私たちに何をもたらしているのか、ということです。
大きくは二つあると思っています。
一つはその有限性によって生まれる効果ですね。
これは、自分が生きていられる時間という有限な期間に
何かを達成しようとするなら、どのように取り組むべきか、
ということを教えてくれる有限性のポジティブな側面です。
もうひとつは、時間軸の概念から生まれるネガティブな側面です。
そちらを深めてみましょうか。
私たちは、レストランで少しでも長く待たせられると
イライラして文句を言いたくなってしまいます。
なぜでしょうか。
当たり前すぎて考えたこともないですよね。
なんでも合理的であることが褒められる今の時代は、
「時間を無駄にする」とか「時間を無駄にさせられる」ということは
とても悪なことだと認識されています。
恐らく「生産性」ということと絡んでいるからでしょうね。
単位時間当たりに、どれくらいのものを得られるか、とか、
どれくらい生み出せるか、ということに価値があると思っているからです。
けれど例えばご主人の帰りを駅で待ち続けた犬のハチ公は、
どうしてあんなに長い時間待っていられたのでしょうか。
犬は誠実な生き物だからでしょうか。
確かにそれもあるかも知れませんね。
でも犬が健気で誠実に見えるのは、我々のモノサシから見たらそう見える、
というだけのことなのではないでしょうか。
忠犬のハチ公だけではありません。
我が家の愛猫チロキチは、明け方になると、
私が目を覚ますのではないかとジッと私のことを見つめています。
視線を感じて目を開けると、微動だにせず私をガン見しているので
「まだ起きないよ」と言って、私は目をつむります。
しばらく眠って、またうっすら目を開けると、
チロキチはまったく同じ姿勢のまままだ私を見つめています。
だいぶ長い時間、そうしています。
なんでそんなことが可能なのでしょうか。
猫はそれほど愛情深い生き物だからでしょうか。
私が思うに、それは彼らに「時間の概念」がないからだと思うのです。
そしてそちらの方が実は当たり前なのでは?と。
頭の中に時間の概念を持たなければ、
どれほど長く待っても、早く!とか、遅いなぁ、と感じない。
というか、感じることができないはずですね。
同じことを、映画「フォレスト・ガンプ」からも感じました。
私は運動不足解消のために、ときどきランニングをするのですが、
例えば「今日は気合を入れて20キロ走ろう!」と決めても、
10キロを超えた時に「やっと半分か」とか、
「あと倍の時間を走るのか」と考えた瞬間に集中力や
精神力が途切れることがあるのです。
でも映画の中でフォレズト・ガンプが
ずっとずっと走り続けるシーンがありますよね。
もちろんフィクションでしょうが、
彼は無心で何かをひたすらにつづけることができます。
それは彼に「時間」の概念が欠如しているからだと思うのです。
事実、私も20キロでも難なく走れるときがあって、
そういうときは時間の概念を忘れているときなんです。
ガンプは普通の人が持ち合わせている何かが欠如していて、
それのせいで常識外れなことをするわけですが、
それがまた現代の常識では無理だと思われることを
どんどん可能にしていきます。
それは時間の概念からくる「労力」や「面倒臭さ」というものを超越し
ただ「今」に全力でいることで可能になっている。
だからこそ観た人にどこか常識に縛られないことの強さと
幸せな気持ちを感じさせるのでは?と思うのです。
そう言えば、あの映画の設定そのものが、
ベンチに座ってひたすらしゃべりつづける、というものでしたね。
※
話を戻しましょう。
先ほど書いたように、時間というものはビッグバンから始まりました。
そして時間の流れの中で偶然に地球ができ、
そこに偶然生物た生まれ、偶然に我々人類が誕生しました。
人類は偶然にも言葉というものを発明したために「意識」が生まれた。
それまで誰にも知られることなく、ただ物理的な法則によって
周期的に動いていた宇宙の天体たちは、とつぜん人間によって
その存在を認識されるようになるわけです。
物が動くというのは時間の経過を伴います。
人や動物がA地点からB地点に移動するとき、
時間が経過していますからね。
しかし、時間という概念が存在しなければ、
その事象を時間軸上で意識することはできないでしょう。
犬や猫も、何かが動くこと、移動することは認知しているでしょうが、
そこには時間という概念がない。
彼らは1日が24時間であることも知らなければ、
1年が365日であることはおろか、1年という概念そのものを持たない。
ところが人類は言葉を持つことをきっかけに
時間軸という概念を持つようになったわけですね。
流れる「とき」に「時」や「分」や「秒」という単位をつけ、
過ぎ去る時間に1日とか、1ヶ月、1年と名前をつけ、
日々に昨日・今日・明日という名前をつけることで、
時間の長さや、今現在以外の時間を認識するわけです。
それらはすべて、言葉が生み出した「概念」ですよね。
人類は言葉によって過去を記録することができ、
1年前の出来事を記憶することができるようになった。
1年後のことを想像できるようになった。
だから我々は過去や未来が存在すると思い込んでいますね。
しかし、ここはちょっとわかりにくいかも知れないですが、
「今」というとき以外は、実際には存在しないんですよね。
本当は存在しない。
昨日も明日も、存在するような気持ちがするだけで、
本当はしないのです。
過去は「もう」存在しないし、未来は「まだ」存在しない。
その証拠に、そこには我々は行けませんよね?
二度と行けません。
過去はすでに経験しているから記憶を辿れば戻れるような気がします。
今は音声や映像も記録できますからね。
でも、実際にそのことが起きた時刻に戻ることはできません。
例えば第二次世界大戦は実際に起きました。
映像も資料もたくさんあります。
でも、本当にはそのときそこはどんなだったのか、ということは、
本当にそこにいた人にしかわかりません。
誰にも、二度とわからないのです。
ですよね?
未来だって同じです。
ときは毎秒毎秒更新されていて、未来に向けて前進していきますから、
未来の存在を感じられるような錯覚がありますが、
我々はすぐ次の瞬間を飛び越えてその先の未来には行けません。
我々には、実際には「今」というこの瞬間しか存在していなくて、
それが時間の流れの中で積み重なっているだけなんですね。
そしてとても面白いことに、この時間の概念、昨日も明日も、
すべて人間が言葉によって規定したものですから、
言葉を持たない犬や猫や、人間以外の
この全宇宙のすべての生き物や物質にとって、
時間というものは「今」しかないのです。
犬や猫が「なげ~な~」とか「おせ~な~」などと言わず
ずっと待っていられるのは、
おそらく時間の概念がないという、
自然な形を維持しているからなのだと思うわけです。
そしてよく思い返して欲しいのですが、過去の記憶や未来の予測は、
おおよそ「恐怖心」や「不安」と結びつくことが多いですよね。
もちろん「希望」や「わくわく」もあるでしょうが、
とにかくネガティブなことに引っ張られやすい。
するとついには「自分はいつまで生きられるのか」という
誰にもわからない問いまでもが頭を悩ませるようになります。
時間は、だいたいにおいて人間を縛り、悩ませる原因になるということです。
※
実際には「今」しか存在しないということを教えてくれるのが
仏教だと思います。
多くの宗教は、未来に必ずやってくる「自分の死」への恐怖を
その存在のきっかけにしていると思いますが、
仏教ではその「死を恐れる恐怖や不安」に対して、
未来を勝手に想像して恐れるという「自分」から解放されて
自由になることで対処することを勧めていますよね。
つまり、自分の「不安感」をいなす、ということです。
右から左へ受け流す、ですね。
どうしてそのような心理への対処法が生まれたのかといえば、
人は誰に頼まれたのでもなく、いつでも、勝手に、
未来を想像して不安に陥るという性質があるからでしょう。
それは自分が勝手に生み出した妄想である、
という「現実」を認識することで、
大したことではないとか、抗っても仕方ない、
不安に感じても意味がない、ということに気づこうとするわけですね。
「今しかない」と知ることは、
ある意味、動物と同じような時間の捉え方をせよ、という意味です。
これは簡単ではありません。
単位時間あたりの生産性を問う、
現代の経済社会ではさらに難しい。
例えば、老後を安心して暮らすには2000万円が必要だ、
という大臣の発言が大問題になったことがありました。
そのとき多くの人は「2000万円貯めるなんて無理だ!」と怒りました。
でも、よく考えて欲しいのです。
もし2000万円ありさえすれば、安心でしょうか。
人は何才まで生きるかなんてわからないのです。
ということは、そのときになったら、
その2000万円というお金そのものが、
その人の残りのライフを表しているということになりますよね。
インジケーターとしてのライフです。「余命」ですね。
お金が使われれば、ライフは減っていきますね。
そのライフのメーターがみるみる減っていくのを見ながら生きる老後は、
果たして安心でしょうか。
ちがうと思います。それは余命の可視化にすぎないからです。
想像しなくていい未来を、無理に見させられているということです。
通帳に記された残金を見ながら、返って心が壊れてしまうと思うのです。
いつやってくるかわからない死までの時間を
可視化しない方が心のためにはいいのです。
つまり、本当に人から老後の不安を取り除き、安心させたいなら、
例えばお金をいくらでも給付する仕組みがあって、
いつまで生きても「お金がなくて困る」ということがない、
という状況を作るしかないのです。
いま、この瞬間を生きればいいということなら、
精神的な苦痛はなくなると思いますよね。
もう人は不安にとらわれることはなくなるのです。
もしくはお金という概念すべてをなくして
すべてがただになってしまうか、ですね。
でも、そんなことは今すぐ実現できないでしょう。
※
未来という概念があるから、未来への不安が生まれる。
それは経済的な不安が大きいと思いますが、
その不安を制度的に解消することは今すぐは難しいでしょう。
だとすると、今できることは「時間の真実」を知ることだと思うんですね。
それは「過去や未来は存在しない」という事実です。
時間というモノサシを捨てれば、
未来のせいで心が壊れることから自分を守れます。
いくら人に待たされてもイライラしないような境地に辿り着けたなら、
多くの恐怖や不安から離脱できるでしょう。
それは不安を感じようとする自分からの離脱です。
もちろん、簡単ではありません。
それに、未来のことなんてまったく考えず、
ただ、「今」さえ良ければいい、ということでもありません。
地球温暖化のような未来予測は人類の種の保存に必要なことです。
例えばその対応がなかなか進まないのも、
ある意味では未来を考えてしまうからなんですね。
ビジネスの未来、経済の未来、お金の未来です。
そんなことを考えず、ただ、「今なすべきこと」に集中できたなら、
事態は早急に進むようになるでしょう。
それは冒頭に書いた時間の有限性がポジティブに作用する場合ですね。
今の人類は、時間のポジティブな作用を刹那的な利益のために、
ネガティブな作用を将来不安のために活用してしまっています。
それらを逆にする必要がある。
未来の経済的不安に囚われて鬱々とせず、
今できる対応策に全力を尽くす。
そのように作用させることを意識して生きましょう。
「時間」なんて、人のつくった妄想なのですから。
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