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「日本は凄い」論調が危険な理由

私は、ここの所ずっと流行っている、
「日本凄い」論調、「クール・ジャパン」論調に、
非常に危機感を持っております。
 
なぜかというと、それは非常に「日本らしくない」からなんですね。
 
日本人が「日本ってすごいだろ!」と言えば言うほど、
日本人としてのプライドや、日本人としての気高さ、
日本人のメンタリティが崩壊していくように感じるのです。
 
それは「日本らしさ」をどう捉えているか、ということと
深く関係しているように思えます。
 

 
私は、日本人にいいイメージがあるとしたら(あるとしたら、です)、

これはつまり、ヨーロッパの人々などから一目置かれたり、
評価の対象になるような部分があるとすれば、ということですが、
それは、

「ブレないこと・不動心」
「忠義の精神(正義に尽くす誠実さ)」だと思っています。
 
例え世の中が、物事の上っ面に反応して右往左往しようとも、
いつも本質を見つめて、正義を信じてどっしりと構えること。

短期的な視点よりも、長期的な視点。
 
そんなイメージです。
 
感情をそれほど露わにしない、という日本人の気質は、
戦後は「よくないこと」のように言われてきましたが、
そんなことはまったくないのです。
 
日本人と西洋人はちがうのだし、
大陸の人ともちがうのだから、
日本人は独自であっていいのです。
 
それが多様性です。
 
いいと思ったものはなんでも取り入れるという柔軟性も、
日本人の特質ですから、これもまぁ、いいのだと思います。
 
けれども、やはり「不動心」のようなものを失う方向の刺激には、
注意を払う必要があるんですよね。
 

 
パラリンピックが始まったばかりのタイミングで
こんなことを言うのもアレですが、
私はリオ五輪の閉会式で流れた、
日本を讃える映像を見て、
なんだかものすごく嫌な気持ちになったんですね。
 
そのモヤモヤの原因は、
「どうだ、すごいだろ!」と自分で言っている、というところなんです。

この「自分で言う」というところに、胸騒ぎがする。
 
そもそも、日本の美学は「自分では言わないこと」だったと思うのです。
もちろん、言うべきことはしっかり言う、というのもまた、
日本の美学の中にもあると思うのだけれど、
 
それは組織の中での話し合いの時に、ちゃんと思いや意見を述べる、
ということの美徳であって、
外の人に対して、自分がいかにすごいか、などと語ることは、
恥ずかしいことだと思うのですよね。

言葉ではなく、行動や態度で示すべきだ、というのが、
「卑怯者」を嫌う日本人の特性だと思うのです。


 
過去の歴史を振り返ってみても、
我々、日本人が自らを賛美するという方向にいくときは、
何か大きなまちがいを犯し始めているときだと思うのです。
 
なぜなら、日本人は、心のコントロールが、
そんなに器用な国民性ではないからです。

そういう不器用な日本人が、「日本、すごいだろ!」と言い出すとき、
これはほぼまちがいなく、
「お前の所より、日本はすごいんだぞ!」という
他者との比較論が入ってくる。
それは、往々にして「差別意識」を生み出します。
 
そしてそのときになぜか、西洋は気持ち上側にあって、
アジアを下に見るという傾向があるんです。
 
ちがうでしょうか?
 
そしてそのような、他者を比較して自分を上に位置付ける、
という考え方は、一神教のそれに似ていて、「争いの原因」になります。

日本はせっかく多神教なのですから、
「みんなそれぞれだよね」という感覚と、
「上も下もないよね」という感覚を、世界に向けて発信し、広げていく
「これからの世界基準」の伝搬者であるべきだと思うのです。

ちょうど世の中はSDGsや、ニューノーマルなどといって、
新しい価値基準を求めている時代。
本来ならこんなときこそ、
和を尊ぶ旧来の日本人の出番だったのではないでしょうか。

日本は、外国の人々が、勝手に賞賛してくれる国を目指すべきであって、
決して自分の口で自分を褒めなくていいのです。
 
「日本はこんなに素敵な国なのに、
 自分では何も威張ったり、自慢したりしないんだね。」
 
・・・ということが、また、日本の評価を上げていくのです。
 
私たちの社会の中で、素敵だな、と思われている人や
組織やブランドは、そういう態度だと思うんです。
 
一言で言えば、「評判がいい」という状態ですね。
 
評判は行動で作るのであって、その行動を他者が評価した時に、
自分で語るよりもっと大きな説得力をもって広がっていくものです。
 
そして何より、その行動は「評判をあげるため」にするのではなく、
ただたんに「それが正しいと信じているから」という理由で
行うべきなんですよね。
 
結果は、ただ付いてくるものだからです。
 

 
このように書くと、
「それが正しいと信じる」ということの危険性を感じませんか?
 
私は感じます。

だってそれが「天皇陛下万歳」となって、
先の凄惨な戦争の被害に繋がったのですから。

自分から言わない態度が、戦争を止められなかったり、
同調圧力を生みやすい社会を作ってしまったわけですからね。
 
でも、よく考えてください。
それは先ほどのような日本人のメンタリティが悪いのではなく、
その利用方法、運用方法が悪かったのです。
 
戦争にまつわる一連の狂信は、
日本人の「正義を強く信じて行動する」という性質を
一部の人間たちが悪用してしまったから、起きたことなんですね。

正義は、絶対的なものではありません。
嘘の正義だってあります。
信じる力が強い人たちには、
何が正義なのかという基準が、真実である必要がある。
そこに嘘があると、大変なことになってしまうわけですよね。

それを証明したのがかつての戦争です。
 
これはドイツ人にも言えると思いますが、
日本人は基本的には根が真面目な性格なので、
戦争とか、そういうことが向いていないと思うのですよ。
 
そういう意味も含めて、日本人は絶対に戦争をしてはいけないのです。
 
日本人のメンタリティで戦争をすると、
とんでもなく酷いことになってしまうからです。
でも、そのメンタリティを、例えば「世界を平和にする」というような
正しい方向に使えば、本当に素晴らしい信頼と成果に繋がるのです。
 
(もちろん、ここでいう「平和」は武力によるものではありません)
 
それを体現していたのが、
数年前に、アフガンで銃弾に倒れて亡くなった、
中村哲さんだったのではないでしょうか。
 
私が、彼こそ現代のサムライだと思うのは、そんな理由からです。
 

 
例え最初は周りに理解されなくても、
信じてつづけること。
 
言いたい奴には言わせておけ。
やがてときが全てを証明してくれる。
 
そう信じて。
 
それが日本人ではないでしょうか。
 
そのような日本人の誇りに照らすと、
「クール・ジャパン」って、ものすごくカッコ悪いですよね。
 
そして、その論調は、他者を差別的に見下して、差別意識を生み出して、
その結果、想像もできないような酷いことを
平気でやってしまうことになるのです。
 
日本人の心はとても立派なのでしょうが、非常に取扱注意なのです。
不動の強さとともに、ガラスの脆さを併せ持っているのです。
 
そういう自分の性質を理解して、
決して暴走が起こらないように、しっかりコントロールすること。
 
そのためには、簡単に暴力的な言葉を使わないことです。
流されないことです。
自我を破壊してしまう事柄からは、距離を置いて、
冷静に見つめ直すことです。
 
私たちは、この大きな自然に抱かれた、
地球の一部なのですから、
不安に思うことは何一つないはずです。
 
ただひとつ、恐るべきは、自分の中にある、
エゴという人間の感情です。
 
その感情は、人類だけでなく、ときに大自然も、地球さえも、
粉微塵に破壊してしまうかも知れません。

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