内藤廣と菊竹清訓 「か・かた・かたち」の要約
・内藤廣は菊竹事務所に2年いたが、その中で、技術・生産の理論に対する概念を磨き、それを基に自らの実践を積み上げたのではないかという
前提のもと読んだ。
■「か・かた・かたち」の理論自体について
「か・かた・かたち」の「構想・一般化された手法・個別具体的建築への応用」というステップは、あまりに当たり前すぎると感じるのは、その手法がいかに浸透しているかを裏付ているということか。
・菊竹清訓は、生産と技術の論理を建築に深く持ち込むことで、技術を低位に見るモダンの建築論の批判を1969年に試みた。
・その後この「かた」と「かたち」の考えはミ―スやカーンからゲーリーに至ると、資本にとりこまれ「かた」から生まれる「かたち」のアイコン化に繋がった。内藤廣は、この反省から「かた」も「かたち」もその場所に応じて意識の中にあるより具体的なものだとしてこれを「素形」と呼んでいる。
菊竹の批判対象は、国民国家と帝国主義を生んだ「モダン」であることに対して、内藤廣の批判対象は「金融資本制度」である。
■生産・技術に対する姿勢
・本文中には予想以上に技術・生産に対しての記述が多く、内藤廣が強く影響を受けていることがわかる。菊竹は、大衆という内藤廣と比較してより抽象的対象に技術・生産の論理を適用しようとしておりまたまだ巨大な大衆に対する信頼がうかがえる。一方内藤廣は、個別の建築とそれを使用するより具体的な人々に対して、技術・生産の論理を展開している。
・技術・生産を建築理論に取り込む姿勢は、技術を手段として建築を作り、自然(と欧米列強以外のほぼ全ての民族)を制服しかけた大きくはモダンと(1969年の時代背景としては)ベトナム戦争への批判が含まれていると思われる。
それは、技術の中に思想を見出し、その技術を通して建築を第2の自然と考え自然との間にモダンとは違う関係を作ろうとした点に見て取れる。
・菊竹は地域社会と工業社会を建築の材料によって調停すると言っているが、これに対して当該部分以外に「地域」が読み取れる記述は非常に少なくここに菊竹が考えた対象がより広域で抽象的なものだったことが伺える。
・本文中にガウディの可能性として、テンション材の可能性を見出してかけているとしたが、内藤のラテンのアーチに対する姿勢はここからも来ていると思われる。
■時間に対する姿勢
・内藤廣は、建築は人が生きる場所であり死ぬ場所であると考えこれは時間をどのように扱うかと考えている。菊竹は、時間に対して機能がなくなった後も存在する空間と人の使い方に合わせて変化更新される部分と2つに分けて考えた。この「空間」の部分は、抽象的かつ不変的なものの傾向が強いが、内藤廣は、機能がなくなった後の空間をより具体的かつ周辺の環境も含めてより質感を伴た「素」としてとらえていると思われる。
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