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「生きる」とは?

〜リハビリテーション医療と独我論をもとに〜

こんにちは。さとうです。

もうそろそろ桜が咲くような季節でしょうか。

この季節になると、植物が芽吹き出したり生き物が少しずつ冬眠から醒めてきたり、ふと生命の息吹(?)を感じるようなイベントがありますよね。

今回は完全にわたしの趣味記事なんですが、普段病院で身体的な障害をもった方やご高齢の方と接する中で感じたことと、哲学の一種である独我論を組み合わせて「生きる」について考えてみました。

興味のある方はお読みいただけると幸いです。

まず、みなさん「独我論」ってご存知ですか?

正直、歴史的な話とか詳細な内容とかは難しすぎてわたしもよく理解できていないのですが、その中でもウィトゲンシュタイン(1889-1951)が著書の論理哲学論考で示した考え方を私は気に入っています。

世界は事実の総体として現れる。
次にそこから対象が分析される。
対象の組合せたる事実はさまざまに変化しうるが、そうした諸可能性の礎石たる対象は変化しない。
ここに、世界が「永遠の相のもとに」姿を現す。
続いて、世界の可能性の礎石である対象が、あくまでも私の経験の範囲にあることが確認される。
ここから、世界は「私の世界」として現れることになる。
(ウィトゲンシュタイン著, 野矢茂樹訳:論理哲学論考、岩波文庫, 2016, p.239より引用)

わりとわかりやすい文章を訳者解説から引用したのですが、これでもまだちょっと難しいですよね...

めちゃめちゃわかりやすく簡単に言うと、

世界のあらゆるものはそこに間違いなく事実として存在するが、前提としてそれは自分が経験した範囲内で知覚できるもの
つまり、"私の"世界でしかない。

ということかなーって思ってます。自己解釈でしかないので本意は違うかもしれませんが。

ここでわたしは思いました。

(...これってリハビリと似てないか?)

普段臨床でわたしが関わる患者様は、時折わたしが常識で当然だと考えるものを「違う」とおっしゃいます。

適切な例かわかりませんが、例えば手術をした後に全く手術と関連性が見出せない場所を痛いと強く訴えてくる場合があります。
もちろん術部にストレスがかからないようにした結果、他の場所に負荷がかかって痛みになっているならわかりますが、それでは説明できない痛みを訴える方は散見されます。

これを独我論的に捉えると...
現象として"その患者様の"世界では痛みが生じていることに変わりはないのだと思います。
しかし、"わたしの"世界ではその痛みを知覚できない。これは"わたしの"世界の限界、と捉えることができるのではないでしょうか。

別の例として、
脳卒中等の後遺症で運動麻痺のある患者様が、脳卒中発症前のように身体を動かそうとしても上手く動かせないという例はよくみられるかと思います。

これを独我論的に捉えると...
患者様にとっての"発症前の"世界では身体を自由に動かせるが、"発症後の"世界では身体を動かすことを知らない、と捉えられるのではないでしょうか。
そしてもちろん、"わたしの"世界ではその動かしづらさを知覚できない。前例と同じように、これは"わたしの"世界の限界、と捉えることができるのではないでしょうか。

上記の例をそれぞれリハビリテーションをする中で改善するという考え方は、まさに独我論の考え方に合致するとわたしは考えました。

先述の論理哲学論考の引用元の続きには、以下のように記されています。

私の世界は「生きる意志」に満たされねばならない。
事実を経験し、そこからさまざまな思考へと飛躍していくだけでなく、その世界を積極的に引き受けていこうとする、その意志である。
どのような世界であれ、生きる意志に満たされうる。
そしてどのような世界であれ、生きる意志を失いうる。
前者が幸福な生であり、後者が不幸な生にほかならない。こうして、論理という表の顔に導かれながら論述を進めてきた『論考』は、その最終段階において、「幸福に生きよ!」という声を響かせるのである。
(ウィトゲンシュタイン著, 野矢茂樹訳:論理哲学論考、岩波文庫, 2016, p.239より引用)

ここがリハビリテーションの本質そのものだと私は感じました。

要は、
病気や事故によって身体が障害を受けてしまったあとはまた新しい世界を生きていかなくてはならない。その世界を、生きる意志をもって生きるか、そうでないか。
これこそが、幸福な生であるかどうかの違いに値する!

この岐路に立たされた患者様を、幸福にするかどうかの一端は我々リハビリテーション専門職が担っていると言っても過言ではないと思います。

患者様が新しい世界で幸福に生きるために、生きる意志をもって生きるためのサポートをする仕事。
それが理学療法士などをはじめとするリハビリテーション専門職なのだと、独我論に触れたわたしは考えるようになりました。

もちろんこれは患者様と総合的に話し合い、心理的な支援をしていくことも含まれますが、直接的な運動療法の中でも大切にしなければならない概念だと感じています。

みなさんは運動療法をどのように展開していますか?

わたしが大切にしたいと考えているのは、患者様自身がどのように感じ、どのように動いていくか、です。

新しい世界に戸惑っている患者様にとりあえずプランを消費してもらうだけでは不十分だと思っていて、それを患者様自身がどう捉えているのかを訊くことが大事だと思っています。

要は、
患者様が新しい世界を認知し、広げていくことが大事なのではないでしょうか。

今は能動的探索(active touch)や認知神経リハビリテーションなどの患者様の自発的な認知過程とそのフィードバック機構による修正を重視するような概念もありますが、これらの目的は、独我論的に言えばここなのではないでしょうか。

長くなりましたが、いかがでしたでしょうか。

リハビリテーションを行う際に、独我論を取り入れた考え方に基づいて介入すると、少し違ったアイデアのもとに患者様と情報共有して進んでいけるかもしれませんね。

興味のある方は、独我論と認知神経リハビリテーションについて少し触れてみてはどうでしょうか。

「幸福に生きよ!」

ここまで読んでくださりありがとうございます。
ではでは👋





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