【映画記録】ウトヤ島、7月22日
映画「ウトヤ島、7月22日」を観た。
浅学ながら、高倉はノルウェーのウトヤという名前の島も、そこで起きた銃乱射事件のことも知らなかったので、主人公の少女・カヤと同じ速度で全容を知っていくことになった。
言うまでもなく、映画と現実は違う。現実に映画のような予定調和は無いし、映画は現実のように果てしなく続かない。しかし、たまに錯覚してしまう。「この海にサメなんか出るわけないだろ」と高を括る市長を見て「私はこんな愚かな判断はしない」と思ってしまうし、わあわあ叫びながら殺人鬼から逃げるヒロインを見て「叫んだら居場所バレちゃうじゃん。私ならもっと上手に逃げられる」と思ってしまう。愚かな判断を下す登場人物たちを、「愚かだな」と笑えるのは、高倉が映画の視聴者だからに過ぎないというのに。
実際、例えば近所の川に「メガロドンが出た!全員逃げろ!!」などというお触れが出たら、高倉はその言葉を信じて一目散に逃げることができるだろうか。例えば目の前に血濡れのチェーンソーを携えた覆面の男が現れたら、高倉は叫ばずにいられるだろうか。
小学生の頃、体育の授業で鬼ごっこをさせられたことがある。高倉はこずるい子供だったので、鬼ごっこをするとなれば必ず鬼役を買って出て、見つけた人間を気まぐれに追いかけては適当なところで諦めて、果てしなく逃げていく背中を見送る、というコスパのいい(怠惰な)遊び方をしていたのだが、その授業の鬼役は平等なくじびきで決まり、高倉は鬼を引けなかった。
逃げるのは久しぶりだったが、逃げ切れないことは無いだろうと思っていた。高倉は運動が嫌いだが、下手ではない。校庭のつくりにも精通している。適当に逃げたり隠れたりしたら捕まらない。
そう確信していたが、現実は甘くなかった。どこから現れるかも分からない鬼から身を隠していると、それだけで心臓がはやる。全く見つかっていないのか、見つかったうえで泳がされているのか。味方が何人生き残っていて、何人捕まったのかも分からない。そして、とうとう鬼に見つかった瞬間の恐怖、逃げるべく走るが、恐怖の所為かうまく足が回らない。自分の最高速度を出している筈なのに、亀のように遅く感じる。もっと速く、速く、と焦れば焦るほど隠れ場所も裏道も逃してしまい、高倉はあっという間に捕まった。
例えばこの時の鬼ごっこが映画になったなら、高倉は誰の記憶にも残らない端役だろう。「もっと隠れ場所をうまく使って逃げたらいいのに」と笑われていたかもしれない。
「ウトヤ島、7月22日」の話に戻ろう。この映画では、ノルウェーで起こった連続テロ事件が描かれている。
2011年7月22日、アンネシュ・ベーリング・ブレイビクという極右思想の白人男性が起こしたテロ。まずはノルウェーの首都オスロにある政府中枢部、首相執務室も含む庁舎群が爆破され、8名が死亡。その後、ウトヤ島で労働党の青年69名が銃で殺害された。
しかし、当時ウトヤ島にいた人は誰も、そんな正確な情報を得ることはできなかった。
主人公の少女・カヤがキャンプ場でワッフルを食べながら仲間と談笑していたら、突如爆竹のような音が聞こえはじめる。音がする方を見ると、人が「逃げて!逃げろ!」と叫びながら駆けてくる。何が何だか分からないままその場を離れ、森の中で息をひそめる。道中で、倒れて動かない人を見かけるが、助け起こす余裕なんてない。
カヤは爆竹のような音の正体も、犯人の姿も見ることはできない。だから、何が起こっているのかを正確に把握もできない。仲間の間では様々な憶測と意見が飛ぶ。「何かの訓練かもしれない」「警察に通報を」「悪ふざけにしても度が過ぎている」「足が折れた」「さっき倒れていた人は死んでいたのではないか」。警察に通報して「その場を動かないで」と言われたためその通りにしようという話がまとまりそうだったところに、傷を負った状態で飛び込んできた人が「犯人は複数いて、警察官だ」などと言うものだから更に混乱する。
ウトヤ島では69 人が亡くなっていて、ニュースをちょっと調べると、死体がごろごろ転がっているなかを歩く犯人の姿の写真が出てきたりする。しかし、カヤがそんな死体の山に遭遇するのは逃亡劇の最後も最後。犯人の姿を見るのなんてラストのほんの一瞬だけだ。カヤは殆どの時間を犯人の姿どころか、聞こえる銃声が銃声なのか確信もないままただ逃げている。
何も、何も分からない。こんな状態で最善の行動なんてどうやって選んだらいいんだろう。対処しようにも情報が足りない。現実には状況を解説してくれるお助けキャラなんかいない。カメラが切り替わって犯人視点をお届けしてくれることもない。
そんな中で、カヤはとてもいい動きをしていたのだと思う。逃げて、逃げて、できるだけ視界の開けていない場所に逃げて、隠れて。死体に末永く寄り添うこともせず、大人数で固まる愚行にも走らず。高倉だったら、ここまで立ち回れていただろうか。
繰り返すが、映画は現実ではない。「ウトヤ島、7月22日」もまた、現実に起こった事件をモデルにしているとは言え、現実でなく、映画である。ただ、固定された視点、限定された情報、切り替わらないカメラ、現実に起こった事件のあらましをなぞった展開、といった現実的な要素が、映画にしてはふんだんすぎるほど取り込まれている。ウトヤ島で銃撃事件を体験した被害者の、混乱、恐怖、絶望が、現実的なものとしておさめられている。
こんな凄惨な映画を観て、思い出すのが「そういえば鬼ごっこでもうまく逃げられなかったな」なあたり、高倉は平和な世界に生きている。この平和がいつまでも続きますように。
こんな悲劇が、二度と起こりませんように。
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