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【映画記録】殺人鬼は死体を数えて眠らない

 映画「羊たちの沈黙」を観た。言わずと知れた名作だが、高倉はなかなか観る機会に恵まれなかった。

若い女性ばかりを狙い、殺したあとに皮を剥ぐという、異常な謎の連続殺人事件が発生。犯人像割り出しのため、女性FBI訓練生クラリスは、監禁中の元天才的精神科医で殺人鬼のレクター博士を訪ねる。彼から、犯人のヒントを得ようというのだ。レクターはクラリスが、自分の過去を話すという条件付きで、事件究明に協力するが……。

映画ナタリーより引用

 以下、ネタバレを含みます。どうかご自衛ください。

 サイコスリラー映画と聞いていたので、「サイコ」や「悪魔のいけにえ」のような不条理でおぞましく残忍なスプラッタ映画なのだろうと思っていたのだが、蓋を開ければ何が何が、理路整然とした推理ものだった。
 物語の主軸は、女性を殺してその皮を剥ぐ連続殺人鬼「バッファロー・ビル」をFBI訓練生クラリスが追う、という至極シンプルなもの。「バッファロー・ビル」は女の皮を集めて服を作る為に女を殺す、息を呑むほど猟奇的な殺人鬼なわけだが、正直なところ、この映画における彼の猟奇性は霞んでいる。正確に言うならば、もっとやばいやつに呑まれている。

 そう、みんな大好き、ハンニバル・レクター博士!
 天才精神科医として働く傍らで殺人を繰り返し人間の臓器を食べたという猟奇的な前科。豊富な知識と気品のある所作。会話だけで人を自死に追い込むことができる圧倒的凶悪。警戒レベルの高い凶悪犯ばかりを収監する監獄で、囚人は皆檻の中だが、ハンニバル・レクター博士だけがガラス張りの独房に入れられている。檻なら腕をつき出すこともできようが、ガラスの向こう側に居る人間にいったい何ができると言うのだろう。それでも監視はクラリスに「ガラスには近付くな」と警告する。
 伊藤計劃によるSF小説「虐殺器官」では、「虐殺の文法」と呼ばれる、脳機能のうちの「良心」と呼ばれる部分の価値判断を「虐殺」への方向へとねじまげる文法について言及される。人は思考でできていて、言葉は思考の輪郭だ。人は言葉によっていくらでも変質する。ハンニバル・レクター博士は言葉から人の輪郭を捉えていた。輪郭を根拠に人を脅すことも、柔らかい部分を突いて挑発することも、輪郭を捻じ曲げて自死に追いやることだって、造作もなかったに違いない。ハンニバル・レクターに自分の話をしてはならない、という警告はそういうわけだ。

 クラリスはこの警告をやぶり、取引材料として自分の過去をハンニバル・レクターに話す。実親の死、耳から離れない子羊の悲鳴、助けられなかった命。
 こんなのは、包丁を持った殺人鬼に首すじを晒すような行為だ。クラリスはそれを分かっている。ハンニバル・レクターに乗せられたわけでもなければ、手柄や報酬といった目先の欲の為にこんなことをしているわけではない。連続殺人を止めるために、自分の命を取引のテーブルに置いている。
 クラリスは若く、強く、真っ直ぐだ。男社会で、不当な扱いを受けても色目を使われても折れず、男に媚を売ることもしない。自分の力を信じ、正義を信じている。ハンニバル・レクターは彼女の弱く脆い部分もまた見抜いていたし、そこを容赦なく抉るが、それでもクラリスは折れない。眩しい。だからこそ、ハンニバル・レクターは彼女に肩入れしたし、子羊の悲鳴が止むことを願った。

 心の強さとはこういうことを言うのだろう。言葉にいくら輪郭が歪もうと、真ん中に一つ通した芯、これだけを曲げず、真っ直ぐに生きていたいものだ。

 ところで高倉、すっかりハンニバル・レクター博士の虜です。高倉はこういう、犯罪の符号、凶悪の具現みたいな存在が大好き。「羊たちの沈黙」が公開された1990年以降、ハンニバル・レクター博士が登場するドラマ、映画が複数作られているあたり、みんなも大好きなんでしょう。
 「羊たちの沈黙」のラスボスはあくまでも人皮剥ぎ殺人鬼のバッファロー・ビルであり、ハンニバル・レクター博士はクラリスのアドバイザーに過ぎません。なのにこの存在感です。ハンニバル・レクター博士がラスボス、或いは主人公を張ってしまったら、一体どうなるのか、考えただけでそわそわドキドキが止まりません。近いうちに必ず履修するぞ、という意思の証明として、ハンニバル・レクター博士シリーズのリンクを貼っておくことにします。


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