哀しき東北 その序説

東北は哀しい。東北は哀れだ。ワタシは東北の哀しみから思索を始めねばならぬ。

心の貧しい人は幸いである、と聖書にはある。だからこそ東北にあってクリスチャンとなった私は、東北は哀しいしあわれで惨めだとずっと思ってきた。それもこれも橋田壽賀子のおしんのせいである。橋田壽賀子的には明治のあわれな女たちへの鎮魂が籠もっていただろう。それにしても理不尽で不愉快なドラマだったことは間違いはないだろう。渡る世間は鬼ばかりだって、考えてもみたら不愉快の垂れ流しだったよなあ!まあ橋田壽賀子はわたしは二流作家と自覚していたからそれなら作家なんかやめてくれとか野島伸司に向かっても同じようなことを言いたくもなる。
ともかく後ろめたさから東北の哀しみを考えなくてはなるまい。斯くして、レヴィ・ストロースの哀しき熱帯にあやかり、哀しき東北を私なりに論ずる必要を感じる。やがて哀しき極地、南極と北極ということにまで思考を致さねばなるまいに。まずは哀しき東北を論ずるために、秋田を考えたい。福島県民のクリスチャンのワタシに秋田を考える資格は無かろう。しかし、自殺と統一教会に呪われた死にゆく田舎秋田を考えることは哀しき東北を考える始まりにふさわしい。あるいはおしんに著された惨めな明治の山形あるいははね駒に表された明治の相馬や仙台を考えることもまた哀しき東北を考える始まりにふさわしかろう。

東北の哀しみを考えていく。それも民俗学的な方法ではなく文学評論的あるいは哲学的な方法で考えるのだ。ならばワタシはおしん、はね駒、吉里吉里人、そして古川日出男の聖家族なんかを分析すればやがて面白うてやがて哀しき笑い飛ばすべき東北が立ち現れてくるだろう。


確かに東北は哀しい。だけど哀しいからこそ東北人は笑うのだろう。哀しみをバネにして笑い飛ばせるちからこそ東北の力なんじゃないのか!?
さあ笑え!知を遊べ!知に遊べ!私は哀しき笑い嘲るべき東北を背負いながら、私なりの哀しき東北を笑い飛ばすように東北論を書かなくてはならぬだろう!!ともかくこの哀しき東北は、中央から勝手に東北と名指しされた本来はみちのくあるいはムツやデワと呼ばねばならなかろうこの地方のできる限りの逆上の想いを込めて東北で笑い嘲るために書かれゆく評論とせねばならぬのだ!

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