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こわれていても(『ラストマイル』と「がらくた」についての放言)

映画『ラストマイル』を観た。以下には内容のネタバレを含むので未見の方はお気をつけて。
(2024/08/31 二度目の加筆修正を加えました。)

人生のレールみたいなものがあるとすればそれの行く先をやすやすと曲げてしまうくらいに『アンナチュラル』『MIU404』の面白さが衝撃だった人間にとって、このキャスティングの時点でとんでもない奇跡のような映画を観ないという選択肢は当然なく。公開2日目、最寄りの映画館へ向かった。

劇場で観てみて、この一連の野木亜紀子脚本のどこに惹かれたのか、なぜここまで好きになったのか、その答えを改めて思い知らされ、反芻する2時間半弱だった。

その人それぞれに人生があって事情があって、多かれ少なかれ誰もがそのなにか大きなものから取りこぼされている、その状態をマイノリティと呼ぶのだとすれば、ひとは誰もが万華鏡のようにマイノリティである側面を持つ。そのことに鼻で笑って歩いていける人間もいれば、ひどく傷ついて疎外感を感じる人間もいる。それはただの事実だ。
野木亜紀子が事実を事実として描く瞬間、それは受け手にどこかひんやりとした感触を植えつける。ずさんな仕組みで動く世界を、覆い隠そうとは決してしない。
けれども、少なくともひどく社会から傷付けられ疎外されてしまったマイノリティのことを、取りこぼされてしまったということをせめてなかったことにはしない態度。
そして、なかったことにならないそれを逃げずに直視した上で、それでもどこかで真面目な人間がばかを見てしまうような世界への、せめてもの抵抗であるような物語の結末。
そういう、痛みを抱えながらぎりぎりで過ごしている人間のやさしさを肯定してくれるような、いや肯定というよりも強く、芯を持って信じてくれているような心地よさ。ああこの感じが好きなんだと改めて思う。

ラストマイルという物語が結末を迎えても、エレナもコウもこれからの日々があり、それぞれの人生は続いていく。『アンナチュラル』が、『MIU404』がそうであったように、彼らの物語に手放しのハッピーエンドはない。メタ的にいえば、そもそも物語が始まった時点で誰かのなにかが損なわれることは避けられない。一度損なわれてしまったものは元に戻ることはなく、傷付いた心は傷付く前に巻き戻すことはできない。終わってみてもただの一区切り、それでも一区切りつくこと自体がある意味巡り合わせの運任せでしかなく、そこに立ち会えた幸運な者たちが肩を叩き合いながら明日も生きていく。
「そのあと幸せに暮らしましたとさ」とはいかない現実が彼らにもあることこそが救いなのだ。なぜならば彼らを観ている我々もそうなのだから。ドラマの最後で三澄ミコトがカラッとした笑顔を見せるときのように、あるいは志摩一未と伊吹藍がいつもの4機捜に帰っていくときのように、過度に湿っぽくならないリアリティのなかで生きる姿はこちらへもなにか活力のようなものをくれる。今回もそれを銀幕の向こうから確かに受け取った。

わたしが今回地味に嬉しかったのは、本作主演のふたりと『アンナチュラル』『MIU404』のメインチームが顔を突き合わせて話をする場面がほとんど(記憶の限りではほとんど)なかったことかもしれない。六郎などは日常的に過ごす場所が変われども、過去2作品で描かれていた彼らは相も変わらず"ただ自分の持ち場に専念し、ただ自分のやるべきことをやった"結果の連鎖がこの結末だということだ。びっくりするほど、なにも変わっていない。
この映画はキャスティングがオールスターだから脚本もちょっと特別にしてやろう、というこちらへのサービス精神が良い意味であまりない。このデイリーファスト物流倉庫を発端として起こる連続爆破事件は社会に大きな影響を及ぼすけれども、あくまでも数日間世間を騒がせたただの一事件としてしか描かれない。
それは裏を返せば、UDIラボの面々が、MIU含む警察の面々が、(メタ的にも)あの場を盛り上げてくれたすべての人間が、いまもすべての事件に平等かつ真摯に向き合っていることの証左に他ならない。アベンジャーズ的な揃い踏みの画などなくても、自分が可能な限りを自分の持ち分で淡々とこなす「いつものこと」こそが肝要で、だれかの世界に最も貢献できる形なのだとまっとうに証明していた。それが"シェアード・ユニバース"を観ているこちらの変わり映えのない日常まで肯定してくれているようで、なんだか嬉しかった。

そしてなにより、エンドロールまで含めての映画ということを体現したのは間違いなく米津玄師の仕事が大きい。
「がらくた」を曲単体で聴いたときには、かなり絶望感が垣間見える歌詞だと感じていた。

「許せなかった何もかも全てを
ずっとあなたを否定してきたその全てを」

「唇を噛んで滲んだ血が流れていく
嫌いだ全部 嫌いだ」

といったようなくだりは若干浮いているように思えるほど強い憎悪や嫌悪に溢れていて。主題歌にしては珍しく少し表現が強すぎるなと、それでいてこの歌の視点は"かなりまいっている"状態だなと思っていた。
「感電」が『MIU404』で活躍するそれぞれの"バディ"を連想させるものであったように、わたしは「がらくた」という曲をてっきり主演ふたりの、つまりエレナとコウのテーマソング的なものなのだろうかとぼんやり捉えて劇場に足を運んだわけだが、それがそもそも勘違いだった(今思えば、『MIU404』と「感電」に気を取られすぎていて仕込まれてすらいないミスリードに勝手に突っかかって勝手に転けているわけなのだが)。
手に汗握る爆弾の行方とそれぞれの葛藤と決意にまみれたラストシーンに釘付けだったわたしは正直クレジットが流れていく間も最後の流れを反芻することしかできなかった。まだ高鳴ったままの胸を押さえながら映画館を出て、余韻を噛み締めながら「がらくた」を聴き直してようやく追いついた。

エレナとの最後の会話でサラが放った"junk mail(イタズラメール・迷惑メール)"という言葉、そして「がらくた」の英題である"JUNK"。この言葉のつながりがどういう過程で生まれたのかはわからない(脚本を読んで米津が曲題にしたのかは定かでない、の意)けれど、米津玄師がいったいこの作品の「誰に向けて」この曲を書いたのかが遅れて理解できてしまった。なぜあれほどまでに憎しみや拒絶に強い言葉を尽くした歌詞を書いたのかが、痛いほどに(しかもこんな痛みでは到底足りやしないのだろうと思うほどに)わかってしまった。
この曲は作品を俯瞰して象徴する類のものではないのだろう。敢えて全体を捨て、一部にフォーカスすることでラストマイルという物語に対する総括ではなく、補完のために主題歌を書いている。米津玄師は確実に、救われなかった想いを掬い上げようとしている。エンドロールの途中で席を立ってもラストマイルという物語はもしかしたら成立するのかもしれない。しかしわたしにとっては「がらくた」の歌詞を咀嚼することで掘り下げられた領域が確かに存在し、そうして『ラストマイル』という映画はやじろべえみたくちょうどいいバランス感に辿り着いた感触がある。

"What Do You Want?"という煽り文句がリフレインされていたけれども、自分が欲しいものは得てして他人からすればがらくた同然のものだったりして。でも自分にとってはもしかしたら命すら賭けられるかもしれない。あの倉庫はそういう"がらくた"でいっぱいだったんだよな、と思う。
そして、再び目を開けることがないまま生き存える人間や、「余計なことをするな」と言われて誰からも助けてもらえなかった人間は、つまりあのふたりの人間すら、社会にとっては"がらくた"だったことに気付いて、胸が痛くなる。
けれども、銀幕で隔たった世界の向こうから、米津玄師はそんなぼろぼろのふたりをめがけてこう歌う。

「あなたがずっと壊れていても二度と戻りはしなくても構わないから」
「生きていてよ」

こんなにせつない慈愛が、やさしい祈りがあるだろうか。
勿論あのふたりを言い表したフレーズでしかないのだけれど、不思議と作品を観たわたしたちからあのふたりに「壊れていても」と言ってあげたかったと思うような、その想いを代わりに歌ってくれたような、そんな気持ちにもなる。時代の寵児であるアーティストだからこそ、社会の普通からこぼれおちてしまった人間に「生きていてよ」と歌う重さがあり、パーソナルを超えたソーシャルな慰めとして機能するようにも思われる。
そんなところまで含めてがらくたという曲は連続ドラマでは実現できないピンポイントな形で物語を支えている、本当に作品の一部分となっている楽曲だと思う。

まだ飲み込みきれていない部分もあり、しばらく考え続けたい。しかしとにかく、わたしにとっては僥倖という他ない映画だった。

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