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Netflix『地面師たち』なぜ師弟関係なのか

25日の夕方にNetflixで『地面師たち』を観た。18時ごろ配信開始し、すぐに見始め7話を一気に観た。原作を描いた新庄さんの小説は『狭小邸宅』を2度ほど読んだことがある。1度は新卒の時、2度目は昨年、神戸で不動産売買の会社で営業として働いていた時。『狭小邸宅』の大きなテーマは「この社会とは何か」だと私は思っている。不動産会社(売買)で働く若者の体験を通して、特に若手社会人は読んで働く意味を考えさせられる内容だと思う。「働く意味」というと何かポジティブな響きを持つかもしれないが、「本当にこんな社会で働いて、一体何が得られるのか」「しかし働かずに、金と無縁で生きることなど"私"(主人公であり読者)にはできない。」「ではどう生きれば良いのか。何も答えがないまま、ただただ、会社で、社会で、あらゆる場面で、精神が削られる日々を不安と共に生きるしかない…」

そこには、

進むも地獄退くも地獄

という”通奏低音”が響き渡っているように私は読んでいて感じた。
しかしそのような”通奏低音”がしっかりと聴けるものは幸福だと思う。そこから、つまり、この近代社会に普遍的な前提から出発するしか我々は現実を直視し、その問題を克服しながら生きることができないからだ。もちろん虚無的に生きることもできる。虚無的でなくとも、内輪ノリだけで生きることも楽であるし、それなりに楽しくノンストレスで、健康であれば一定アルバイトなどでも月20-25万円程度稼ぐことができ、都心でもひっそり生きていけるのが現代、特に日本はそうだろう。ただ、大きな夢や目標を持つものは基本的には、この近代社会のデフォルトの虚無さ加減に絶望し、そこから改めて自分のターゲットとロードマップを敷いて日々、安価なドーパミンを手放して自分のやるべきことに没入していく必要があるだろう。

ここでこんな話をしたのは、最初に新庄さんの小説に対する私のスタンスを示したいと思ったからだ。つまり私は新庄さんの小説を好む読者でありながら、かつ、そこに描かれている中途半端な希望が打ち砕かれる絶望的な現実の筆致に心動かされながら、尚、その先に進まなくてはならない、否、進むとは何がどうなることなのか、という問題意識を持っているということを読者に伝えたいと思ったからだ。つまりそれは現実と闘う、という意味なのだが、それは後述する。

話を戻そう。
『狭小邸宅』に流れる”通奏低音”(「進むも地獄退くも地獄」としよう)と地面師たちのそれはとても似ている。もう一つ、似ているものがある。
それは「師弟関係」だ。なぜ、師弟関係なのか。
 私は『地面師たち』の原作は読んでいない。従って大根監督が一部アレンジしているかもしれないと思ったのが、最後Netflix『地面師たち』ではタクミ(綾野剛)がアリソン(豊川悦司)に「俺は地面師じゃない」と抵抗する場面だ。彼が後にも先にも、師であるアリソンにタメ口を聞き、反発の意を示したのはその時のみだろう。もちろんそれは別れを意味する。
 一方『狭小邸宅』では不動産業界の主人公は上司に最後まで反発はしない。むしろその上司といつの間にか”瓜二つ”のような自分に気づき、かつ強烈な違和感を覚えながらも、その現実から目を背け「(車の)アクセルを踏んだ」(原作)
 両作品に共通するのは、未熟な(社会の中でまともに生きること(挫折等の理由によって)を諦め日々適当にやり過ごしている)若者が、強烈な"師"と出会い、いつの間にか自分がその”師”と瓜二つになっていることに気づく(気づいた時には、ほとんど後戻りできない場所まで来ている)、という構成だ。
 これは新庄作品の大きな特徴の一つであるだけでなく、人が「自立」するためには師を媒介しなければならないということを示しているのではないか。そして新庄が(意識的または無意識的に)暗示していることは、「(未熟な)若者が、師を選ぶ際に、まともな基準を持っていることは、あり得ない」ということではないか。否、彼のカリスマ性、社会的ステータス、人身掌握術等の外的な要素に惹かれ、若者自身は師を比較し、自分の目的という全体像に師を「位置付け」、師を超え目的を実現する、という大局観を持他ない場合、その師の劣化版が出来上がるに過ぎない、ということではないのか。
 私が新庄作品からこのような"本質"を”抽出”しているのには訳がある。それは私自身のことだからである。私も過去、師を求めて人生の隘路に入り、一定の修行期間・通過儀礼を経て多少なりとも世の中の認識が変わったということがある。しかしいつしか自分がその師の言う通りに動き、その師の人生をコピペしているだけの存在に近いことに気づき、また、かつそれを師から批判され、師弟関係が終わったという体験をした。
 しかし人生のある期間で師弟関係を創りそこで「自立」に向けて自分や社会の課題に対して取り組んだことは、とても意味ある時間だった。ただ、多くの人に「師弟関係は良いものだ」と伝えるのは前提ある。それは自分の目標や目的が先にあって、その中に位置付けられない限り、先述した陥穽に自らはまりにいくようなものだ。
 では、そうした目標はそもそも自分自身で創り出すしかないのか。否、そうした人生のテーマを創り出すということが一つの目標であるならば、そこに向けての師を選べば良い。しかしその目標が達成されたら、一度関係は終わりになるのが当然だ。そこから新たな出発をするでも良いし、その師との関係を再定義して一定期間で目標を定めてやれば良い。その「節目」がおざなりになった時、いつしか自分が師の劣化版に成り下がっていたことに気づくことになる。
 



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