「なんだか、うまくいかない。」「なんか違う。」モヤモヤするときありますよね…。モヤモヤって消えないのかも、どんな状態でも、モヤモヤって残るのかも…。そんなことを思いながら、モヤモヤしつつ、「モヤモヤと仲良くなるのが一番いいのでは?」そんなことを思いながら、そして、モットーに活動しています。 【まよって、なやんで、いいんです。イッツモヤモヤタイム‼︎】郡司塾っていう塾やってます。 https://gunjijuku.studio.site/
岡田斗司夫さんのこの動画にインスパイアされたので、HUNTER×HUNTER玄人向けだが、ちょっと考えたことを書いてみたい。 人間が個人主義的で、蟻(などの人間以外の生物)は共同体的、というのは普遍的なモチーフで、それがこんなにも分かりやすく、ドラマチックに漫画で表現できるのは凄いと思う。 歴史哲学の観点から見ると「個人」という概念が人類史上明確に、存在様式(生活の中に)として出てきたのは「近代」とされていて、それまでは「村」に代表される共同体の決定が個人の意思よりも優先
31歳の独身男性。婚活をしている。それが私である。 何のために結婚したいのか? 結婚とは、二人の関係性が、社会的になるのである。それは二人で、ただいる、というだけでなく、家という関係性、勤めている会社、地域社会、あらゆる場所に、結婚という一つの契機を経て、自分自身が、そして二人の関係性が、社会性を帯びるということなのである。 私は何を言っているのか。簡単である。人は社会的な生き物だ。しかし人が生まれて、大人になり、死んでいく過程で、必ず人は社会の中で生きるということにな
最近よく考えることがある。 今の自分であれば、半年前のあの出来事、あのイベントに対して、全く違う振る舞いをしただろうと。 これは過去を否定しているのではなく、今の自分の視座の高さや目的意識の明確さに対して、肯定的な意識を向けているということなのだと思う。 「あの時、ああしておけばよかった!」というのは誰しも思うが、もし今、似たような出来事が自分に起こったら、全く違う振る舞いをしていただろうと思う。 人は肉体的な変化に対して「成長」という言葉を使うが、同じく、内面の変化に
こんにちは。郡司塾のTKです。 私事ですが、最近「異性に対するお金と時間の使い方」を変えました。 郡司塾では「異なる結果を得たいなら、今までとは違う行動をしろ」と口酸っぱく言われます。 私は今、彼女を探してあれやこれやしているのですが、中でも自分のお金と時間の有限性を改めて感じているため、もっと大きな結果をスピーディーに得るために、以下のようにやり方を変えました。 今まで:一次的なノリや雰囲気で初対面の女性でも誰にでも奢ったり時間を使う 最近:初対面の女性の場合、まずオンラ
6回目のIELTSの試験をおえた。 八重洲の地下をとおって、丸の内丸善のカフェにはいった。 すぐにパソコンをひらいて、スプレッドシートに、振り返りをうちこんだ。 ボクは「ハンセイブン」はかかない。中学生の頃にかかされすぎて、ケンショウエンになるくらい書いた。人の一生分のハンセイブンを書いてきた。ときどき、友達にかいてもらったりもした。うんざりだ。 だいいち、できないことをたくさんあげることがとてもキライである。できないことをたくさんあげて、できるようになるのだろうか。逆に
25日の夕方にNetflixで『地面師たち』を観た。18時ごろ配信開始し、すぐに見始め7話を一気に観た。原作を描いた新庄さんの小説は『狭小邸宅』を2度ほど読んだことがある。1度は新卒の時、2度目は昨年、神戸で不動産売買の会社で営業として働いていた時。『狭小邸宅』の大きなテーマは「この社会とは何か」だと私は思っている。不動産会社(売買)で働く若者の体験を通して、特に若手社会人は読んで働く意味を考えさせられる内容だと思う。「働く意味」というと何かポジティブな響きを持つかもしれない
27,500円も払って、私は毎月、英語の試験を受けている。 手取り20万円程度の給与の私からすれば、これはとんでもなく高い。食費を削り、高騰する水道光熱費を払い、欲しいものを我慢し、日々、英語を勉強している。 そんな私にとって、どれだけこのテストが大きいものか。 物質的、肉体的負担による犠牲が、精神を陶冶するに足るものであると信ずる以外、毎月27,500円も払ってわざわざ英語のテストを受けたりはしない。さながら私は禅の修行僧である。座り続けた先に何があるのか、そう邪推すること
ここ三日ほど、同じ夢を見て目覚めた。それは私の故郷の夢で、海や山、家族や旧友が登場しては語り合い、対立も摩擦もないユートピア的な時空間と関係性がそこにあった。私はその夢の中で、ある時は故郷の歴史や面白さについて熱心に具体的に友人に語り、ある時は故郷の海水の飛沫を浴び、釣り人に声をかけ、ある時は歴史ある電鉄の車両に乗ってどこかに向かっている。私は本当に、故郷に育てられたのだと思う。今の私を語る際に「その街で育った」ということを抜きには自分自身を語れないほど、16歳まで育ったその