IELTSの試験会場で出会った相手
27,500円も払って、私は毎月、英語の試験を受けている。
手取り20万円程度の給与の私からすれば、これはとんでもなく高い。食費を削り、高騰する水道光熱費を払い、欲しいものを我慢し、日々、英語を勉強している。
そんな私にとって、どれだけこのテストが大きいものか。
物質的、肉体的負担による犠牲が、精神を陶冶するに足るものであると信ずる以外、毎月27,500円も払ってわざわざ英語のテストを受けたりはしない。さながら私は禅の修行僧である。座り続けた先に何があるのか、そう邪推すること自体が今この瞬間を汚す。私ができることといえば、日々膨大な量の専門的な英単語に目を通し、記憶し、難解な長文を解き、スマホの画面に向かって英語を呟きながら只座るのみである。只管打坐、行住坐臥、悟後の悟り、なんでも良いが、私は禅の境地で英語を学習している。
今日も月に一度のテストが終わった。ほっと一息ついた。あと残すはスピーキングのテストのみ。スピーキングのテストは講師の外国人と2人だけで個室に入り、そこで複数の質問をされる形式になっている。前回のテストでは、いかにも品の良いアングロサクソンの男性講師だった。「How are you?」「I feel a little bit nervous haha」「Feel relax ^^」という導入の会話で私の状態をリードしながら、わかりやすく丁寧な発音で私の拙いスピーキングを聞いてくれた。スピーキングルームから出るときの彼の温かい微笑みは初めて受けるテストの後味を最良のものにしてくれた。
今日も前回のような講師だと良いな。男性だろうか、女性だろうか。年配の人の方が優しいイメージがある。まあいずれにせよ、あとは運に任せるだけだ。
講師がスピーキングルームから現れた。私は自分の目を疑った。それまで梅田の高層ビルの一角でコンピューターの画面に必死に目を凝らしながら長文を解き、1時間タイピングし続けてライティングのテストを終え、美しいクイーンズイングリッシュが流れるリスニングを受けた後の私の目の前に、突如、ヨガマスターが現れた。
ストリートファイトをそれほどしたことがない私でもわかる。彼は完全にヨガマスターだ。首からはドクロを下げる代わりに、30センチほどの白いアゴ髭を三つ編みにしている。3つのドクロではなく、3本のアゴ髭。上半身は服を着ているのが違和感しかない。なぜなら彼はヨガマスターなのだから。
彼とのスピーキングは散々なものだった。私はヨガマスターだと思い込んだきり、彼の発する言葉が全てインド訛りに聞こえるようになった。(たぶんインド出身ではないだろう)目が合うたびに、俺はヨガマスターに質問されている、という信じられない体験に吹き出しそうになり、テストどころではない。いつ必殺技を繰り出されるかわからない。身の危険も感じる。若干スパイスの香りすら漂う。
そんな私のスピーキングは言うまでもなく、散々な結果であった。去り際、ヨガマスターのふっと小馬鹿にするような笑いが私に刺さる。彼の新しい技だろうか。そんな、精神にしか影響を及ぼさない小技があるとは、我々はヨガマスターを知らなさすぎた。見事一撃で、「K.O.」されたのだ。
そんな大阪梅田の帰り道、私は先ほどまでの信じられない体験を何度も反芻していた。音楽を聴く気にもなれない。「私は今、なぜ、ここにいるのか」
そんな哲学的、かつ極めて私的な問いが浮かぶ。その問いは「ヨガマスターは私に何を教えてくれたのだろうか」という問いにソフトランディングした。K.O.された事実、それは、「お前が海外に行って、とんでもない相手と仕事をしないといけない、そんな日が来た時は、この日のことを思い出せ」という啓示ではないのか。いや、間違いない。日本で出会う外国人は所詮、日本や日本人に対して少なからず好意を持っている者が多いだろう。しかし当然、私が今後出会うであろう人間は、国や、神や、金に対して、全く私とは分かり合えない、よもや人間とすら呼べない相手とも出会うだろう。その時に私の武器は言葉であり、思想であり、生き方しかないのだ。であれば言葉や思想を磨くしかない。生き方を錬磨するしかない。しかも世界中で最も使われている言語で以てそうするしか、私の生きる道はない。
改めて身を引き締まらせてくれた出会い、それが私の今回の体験の意味ではないか。
西の空が明るい。浄土が近いのだろう。人は自らを止揚する時、一度死なねばならない。
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