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過去を否定しない。しかしそこに止まりもしない。

最近よく考えることがある。
今の自分であれば、半年前のあの出来事、あのイベントに対して、全く違う振る舞いをしただろうと。

これは過去を否定しているのではなく、今の自分の視座の高さや目的意識の明確さに対して、肯定的な意識を向けているということなのだと思う。

「あの時、ああしておけばよかった!」というのは誰しも思うが、もし今、似たような出来事が自分に起こったら、全く違う振る舞いをしていただろうと思う。

人は肉体的な変化に対して「成長」という言葉を使うが、同じく、内面の変化に対しても「成長したね」という場合がある。同じ単語を使うのだ。

これはつまり、精神的な成長が肉体的、物理的な成長と同じくらい、「確かなもの」であることを人々が認めている、ということを意味するのではないか。

そして内面的な成長を客観的に認識できるということは、それらが必ず外に現れてくるものだからだ。

同時に、当人にとっても、その内面的な成長というものは、確かに感じることができる。

内面的な成長を感じられない人は、共通して、過去の自分を否定しようとする。人は否定するものに固執し、むしろその自分と闘う。

その結果、とてつもないエネルギーを浪費して、外に向かって己を自由に表現するという人間的活動がもっとも遠いものになってしまう。

社会的、歴史的に名を残す人物というのは、ある意味で過去の自分に対して執着していない。ただし、今の自分であれば、全く違う振る舞いをしただろう、という経験を、本当に毎日という単位でしている人物ではないか。

要は、毎日成長痛で足が痛い成長期のように、レベルの高い人物は少し前の自分がとても遠くに感じるものではないか。

それはあるきっかけによってそういう意識や気づきを得ることもあるが、何より行動を変え、目的を変えてきた人が、そのような意識に到達しているのではないか。

過去を否定し執着する人は、要は同じ目的で生きている人と言っても良い。自分の軸足をその場所に置いたままであれば、当然、新しい何かは掴めない。

本当に社会的に英雄とされる人物は、いつも行動している。過去の自分を否定していないにも関わらず、その過去の自分ははるか遠くに見えなくなり、自由に空を飛ぶごとく、自己を表現している。

闘うのは自分自身とではなく、この社会であり、その結果自分の不足しているところ、未熟なところが炙り出されるに過ぎない。

そこで夢中で他者と自己と格闘した人だけが、真に自己を否定しさるがごとく、全く違う顔で生まれ変わるのではないか。

最近、そう考えている。



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