短歌を知ったら言葉で伝える「愉しさ」を再確認できた
この半年、短歌を好む人とのご縁が増えた。好きな歌人がいて歌集を愛読する人はもちろん、自身で日常的に創作する人にも出会う。
触れたことのなかった分野だが、まわりで楽しそうに魅力を話しているのを見ると興味も湧く。ためしに入るには、どこから踏み込めばいいのだろう。
と、考えているときにすすめられた本が「月のうた」(左右社)だった。一〇〇人の現代歌人がそれぞれ詠んだ、月にまつわる歌集だ。ひとり一首のアンソロジーは、好みのひとつを見つけるのにちょうどいい。
けれども、近所の本屋をまわっても「月のうた」は見つからず、代わりに同シリーズの「海のうた」(左右社)を購入した。これもまた惹かれる。
いっしょに一〇〇円ショップで細い付箋を買う。ゆっくり本のページをめくり、心にとまった一首へ、ぺたぺたとそれを貼った。一枚、また一枚。と、歌集はたちまちカラフルな付箋にまみれる。それがまたきもちを弾ませた。
お気に入りの一首は、詠んだ歌人への関心も呼ぶ。著者の紹介をあわせて読むと、自分と同い年も多いと知る。「海のうた」(おそらく「月のうた」も)は掲載した短歌の出典も書かれていた。次に手に取る歌集選びにも困らない。
「俳句は季語を入れなければならない縛りがある分、短歌のほうが自由度があるんです」
と、自ら詠むこともあるという人がそう教えてくれた。なるほど。
短い文章、少ない文字で、自分の伝えたいことを明快に伝えることの「難易度」ばかりに目を向けていた。言葉を選ぶこと、見つけることは、愉しさなのだ。そう考えると、ハードルがまた下がった。
付箋を挟んだページをまた読み返す。海の風景そのものを描写したものよりも、海を介したときの人の行動や、表情であったり、誰かとの関係性を描いたものが多かった。
だらだらと説明されるより、シンプルで、なのに、はっきりと目に浮かぶ。想像できる。これまで嗜んでこなかったことを惜しむほど、身につけたかった文芸が、それだ。
そこにあるものを、ありのままに書く芸。
ありのままは、そこに何かを飾ろうとした時点で、それでなくなる。また、目の前のありのままに、気がつけていなくても、それを書くことができない。
小説は作り話だから、と思うかもしれないが、きっと同じだ。目の前の「今」を切り取り、現在進行形で描く。それをいかに読者にわかりやすく伝えることができるのか。
言葉を紡ぐのは愉しい。難しく考えそうになったら、短歌のあり方を思い出すことにする。