【主張】菅野完氏は筆を折るべき~菅野氏自身による「説明」と『週刊現代』の報道の内容を読んで~(2018.08.04)
本項は、文字数に限りのあるツイッターで連投した一連のスレッドをまとめたモーメントの内容をさらに文字数を拡大して、引用などを補足し、ブラッシュアップして、より完全にしたものである。今となっては、FacebookのNoteに掲載したものも旧Twitterのモーメントも使用不可なので転載した。
はじめに
#現代ビジネス が紹介した『週刊現代』の #菅野完 氏に関するこの記事。衝撃を受けた。
以前、同氏が市民団体時代に国内で起こしたという性暴力事件について批判したことがあったが、今度は同じ女性への暴行と家庭内暴力(DV)。しかも2回とも刑事事件に発展している。
同誌同様、私はジャーナリストとしての #菅野完 氏を尊敬している。しかし、市民団体時代の性的暴行事件の解決向けた同氏の不誠実な態度については、その結審を受けたときの報道を受け、「著述家だけに"書くことはまとも”だが”やることは鬼畜”」と批判したことがあった。
また、同民事訴訟の判決と対する菅野氏の弁護士の対応をみて、「菅野氏に対する「社会的制裁」は今日この日から始まる」と、厳しい批判の目を向けたこともあった。
だが、この2件の刑事事件は時系列でいえば、6年前の事件から更に遡った過去に起きていたことになる。まだ20代とはいえ社会人時代の「犯行」だ。その後、になる。まだ20代とはいえ社会人時代の「犯行」だ。その後、猛省を経て、氏の言う「 #ドロドロとしたミソジニズム」を克服して、今の菅野氏があるのだと思いたいが、同氏が「著述」する内容と過去の言動には乖離があり過ぎる。
たとえば、こんなツイートが記憶に新しい。 モデルで女優の水原希子さんに対するヘイトがネット上で蔓延したとき、菅野氏はそれを「物を言う女性への反感」だと看破したのだ。
二〇代でジェンダー観が現在ほど確立していたとは思えないが、菅野氏の過去の暴行事件を振り返ると、やはり以前評したように「書くことだけはまとも」と改めて評せざるを得ない。行動と言動があまりに乖離しているのだ。これは、例の民事訴訟への対応が直近(去年)の出来事だったことを思えば、合理的な帰結であると思う。
勿論、最終的な評価は『週刊現代』の紙面に掲載されるという菅野氏自身の見解にもよるが、このWeb記事に掲載されている内容が確認された事実ならば、菅野氏が「逃亡犯」であるという事実は覆らなくなる。宮前ゆかり氏同様、「残念」な思いで一杯である。
菅野氏の「説明」文を読んで
https://embed.fbsbx.com/embed_twitter.php?url=https%3A%2F%2Ftwitter.com%2FofficeSugano%2Fstatus%2F1023678578473369605 (※現在はデッドリンク)
やはり同氏が向き合ってきた「 #ドロドロとしたミソジニズム 」はこの時に起因していた。しかし6年前の民事訴訟でも、女性を「支配する対象」としか見なさないミソジニズムは健在だった。
「度し難い」 と、これを一読したとき、私は思った。
その後、 改めて『週刊現代』の記事は読んだが考えは変わらなかった。そこで、改めて「説明」文も精読してみた。 そして戦慄を覚えた。それは、同氏の言う「 #ドロドロとしたミソジニズム 」が、想像を遥かに越えた「闇」を包含していると思えたからだ。
同氏は認知行動療法等の各種更正プログラムによりその「改善」を図ってきたが「改善した」とは自分の口からは言う立場にないとする。
そして、こう続く。
ここで私は、本日私のスレに反応してくださったこの方のコメントに思い至る。
菅野氏自身が「生涯継続し続けなければならぬ」改善作業を必要とするほど「横暴に振る舞い、相手の尊厳や自己決定権を踏みにじる行為に及ぶ」ことを繰り返してしまう深い闇の原因は何なのかと。
しかし私は、この出自という「生まれ持った境遇」が菅野氏曰く「自分より弱い人」「自分より立場の悪い人」に対する『攻撃性』( @um_senhor 氏の言葉)へと転嫁されているというのならば、それは「理解」はしても「許容」すべきことではないと思う。
「容認」すべき『攻撃性』ではないと思う。
本項を書き始める前、私はある方と菅野氏公式の案内ツイート直下のスレで意見を交わしていた。私はこの方の人情溢れる意見を尊重しつつも、もう一度、菅野氏自身による『説明』を精読して、再度判断したいと思ったのだが、それ以前に書き留めている内容があった。
残念ながら、菅野氏自身による『説明』を読んでも、その時書き留めた(正確には自らボイスレコーダで録音した)内容に変更を加える必要は生じなかった。菅野氏の遠い過去(20年前)、過去数年(6年前から去年の判決に至るまで)、そして現在までの出来事を俯瞰してみて、私は以下のように結論付けた。
以降、更に『週刊現代』の記事を読んで付記すべき私の主張を記述する。
「週刊現代」の記事を読んで
菅野氏は米国で20年前に二つの事件(傷害・DV)を起こし、6年前には日本国内で性的暴行事件を起こした。前者は刑事事件であり、後者は民事訴訟だった。傷害事件では保護観察処分が未了、DV事件では未出廷。国内の民事訴訟では損害賠償100万円を払って法的制裁を受けた。が、社会的制裁はどうだろうか。
以前書いたように、私は「情報の流布程度で「社会的制裁を受けた」とするのは甚だ認識が甘い」という考えを今も持っている。またそれを理由に慰謝料額を少なく見積もったことには言語道断とすら思っている。
今回、菅野氏の「説明」を読んで問題と思ったのは「現在の行動」だ。
「説明」の中で菅野氏はこう述べている。
6年前の性的暴行事件を起こした直後のこと、ということになる。
つまり事件の直後から菅野氏は自らを省み、認知行動療法等を開始したことになる。
民事訴訟の公判が行われたのはその最中だ。
菅野氏自身が「生涯継続し続けなければならぬ」と述べているのだから、この改善作業は道半ばで、つまり公判中も「完了」はしておらず「相手の尊厳や自己決定権を踏みにじる」加害癖とハラスメント癖は併存していたことになる。
そこで初めて、加害者としてあまりに身勝手な慰謝料減額の主張に合点がいく。
人間にとっておよそ認めがたい己の欠落とも言える「癖」の改善に長年取り組み続けているのが事実であるならば、その取組み自体は評価に値するし、また取り組み続けている菅野氏は尊敬に値すると思う。 しかし、その「効果」はどうなのだろうか。
菅野氏の言う「改善作業」が事件直後の 5年前から行っている取組みならば、公判段階でその「効果」は発揮され得るものではないのか。つまり、「被害が軽微」だという理由で被害者の痛みを軽んじるような発想に至る筈がないのではないか。
「効果」が発揮されているならば。
また「改善作業」の「効果」が発揮されているのならば、「著述」のプロが書く「謝罪文」で煙に巻かれたくないという被害者の気持ちを慮る気持ちも、生じようものではないだろうか。この弁護士の入れ知恵なのか、それとも菅野氏自身が主導して行ったのかは定かでないが、ここが解せない。
主張
私がこれから行う主張は、多くの方の反感を買い、また危惧を生むかもしれない。それはリベラリズムを標榜するなかでもっとも触れてはならない「聖域」とも言える領域に踏み込むことになるからだ。だが、菅野氏の欠落を「許容できない」「容認できない」と結論した以上、私は敢えて、以下を主張する。
菅野氏は筆を折るべきである。
菅野氏のこの底知れぬ「闇」は、生半可な「改善作業」では改善し得ないことが、直近の例からもかわる。自らの「加害癖」について「改善作業」が完了したという認識がないなかで、影響力のある人物=インフルエンサーとして数々の情報、含蓄のある著作を発信している。 私はリベラル・立憲主義に拠って立つ立場から、菅野氏の発信する情報の内容については問題があるとは思わない。しかしそうした影響力のある「有用」な情報を発信する人間が、自身の欠落の不完全な「改善作業」から社会に害を為す=被害を生じさせる「社会病質者」であるなら、敢えて自らの決断で断筆すべきだろう。
私は今回の菅野氏の「説明」を読むまで、氏の『 私は今回の菅野氏の「説明」を読むまで、氏の『 #ドロドロしたミソジニズム 」というものが「ミソジニー」の枠に収まるものだと思っていた。しかし、彼のは単なる「女性嫌悪」ではない。「弱者嫌悪」「弱者憎悪」だ。彼自らがそう認めた。
彼の『攻撃性』は「弱者」全体に向けられる。
菅野氏のこの「弱者に対する攻撃性」は、20年前、同棲している女性に対する傷害・DV行為という形で発露した。そして6年前、同じ市民団体で働く全く関係の深くない女性に対する性行為の強要という形で発露した。そして、そのうち菅野氏が曲がりになりにも社会的責任をとったのは後者の民事訴訟のみだ。
これは菅野氏自身が『説明』で認めている。
菅野氏は『説明』で、「未完了となっている司法手続き」について、「専任の弁護士と契約を新たに結び、清算手続きを前に進めております。この手続きの進捗や見通しに関しましては、進展あり次第、ご報告申し上げます」と述べている。これはいくら情報開示を行っても、所詮は菅野氏側からの一方的なインプットでしかない。
余計な「説明」
また、これについては極力触れたくなかったのだが、同じく『説明』で菅野氏は、「週刊現代記載記事が示す事案に対する声明」と「当該記事の取材プロセスに関して、当方が今後おこなう措置についての声明」の二本立てにしている。そこで「当方が週刊現代に抱く不信感」をわざわざ「説明」しているのだ。
そしてわざわざ、「取材プロセスについて、当該記事は虚偽を含んでいます」と宣明している。更に「当方の視点からは極めて低品質かつ悪意に満ちたものと判断せざるをえません」とまで述べ、「名誉毀損訴訟等をはじめとする様々なチャネル」を通じて「対話」を行うと表明している。
菅野氏がこの二本立てのバランスが取れていると思うなら、勘違いも甚だしい。むしろ「御指摘の内容は全て事実」と前段で認めた後で、後段で「極めて低品質かつ悪意に満ちたもの」とすることで、自身が正しい問題意識から誠実に「改善作業」取り組む姿勢があることを相殺してしまっている。
菅野氏の「悪い癖」が出た、とすらいえる。つまり「ジャーナリスト」として報道の不備を指摘しないではおれなかったのだろう。だが、『週刊現代』の記事が問題にしているのは二〇代から刑事事件の精算を怠ってきた「人間・菅野完」の姿である。菅野氏は「人間・菅野完」として主張を終始一貫徹するべきだったのだ。
おわりに
『週刊現代』の「取材」の仕方には確かに問題があったのだろう。それをどこかで指摘し、不備については明確にし責任の所在をハッキリさせる必要があったのだろう。プロとして。だがそれを一本の「説明」で行う必要があったのか。私には、菅野氏の「悪い癖」=『攻撃性』がまた顔を覗かせたように思える。
周回遅れで5日も経った後にこのことを殊更取り上げていることについては申し訳ないが、人生の一大事だったのでご容赦願いたい。だが私はこの際、菅野完氏は最低でも、「過去の清算」に全精力を費やし、そして精算とともに「改善作業」に励み、またこれに専念し、著述業を「休業」すべきだと思う。
そういう意味で、「筆を折るべき」だと私は思う。
著述業が生業であり、まさに家庭を支える収入源であるという問題はつきまとうだろうが、私は本当にこの際、将来また同じような事態に陥らないためにも、そして家庭を守るためにも、菅野氏は過去の因縁を絶ち、過去の自分を絶ち、すべてを精算して新たにやり直すための「修復の旅路」に出るべきだと思う。
以上