【第五歩】舞台「奇跡の人」と「言語」と「唾」について考えるの巻
「舞台」について
先日は、なぞのレコーディング風景をInstagramに投稿していた高畑充希だだが、2022年10月22日現在、今後の予定は、来年1月の舞台「宝飾時計」以外、発表されていない。
ということは、最近の仕事は「奇跡の人」→「ミス・サイゴン」→「宝飾時計」ということになり、舞台が連続することになる。
高畑充希自ら、ホームグラウンドは「舞台」であることを公言しているので、映画、ドラマは二の次と考えているのかもしれないが、ファンとしては、舞台だけでなく、さまざまな活動を待ち望んでいる。
先日のレコーディングも突然のCD発売または、配信リリースなどを期待してしまう…。
さて、本題に入る。
高畑充希は昨年のインタビューで次のように話している。
この「記憶のなかでしか存在しない美しさを愛してきた」というのが、いい。
たぶん、彼女の中で舞台(演劇)とは、花火のように一瞬大きく咲いて、またたく間に散ってしまうような儚さが、魅力なのだろう。
(「舞台」と「演劇」は多少意味が異なるが、本稿では、ほぼ同一の意味合いで使用する)
舞台「奇跡の人」の「言語」
そんなわけで、今回は、2022年5月公演の「奇跡の人」について、書いてみたい。
ワタシは、この舞台(東京公演)を2度観に行き、東京公演千穐楽のライブ配信も視聴した。
このライブ配信については、高畑充希自身もあまり良いことを思っていなかったようだ。
しかし、今年7月のインスタライブの中で、舞台に行くことができない人々に観てもらえることができたと言っていて、ある程度は納得しているように感じた。
しかし、「舞台」は生で劇場に足を運んで觀てほしいというのが、本心であることには変わりなさそうである。
思い起こせば、2020年「ミス・サイゴン」が中止になった際に投稿されたインスタの投稿の最後の言葉が、とても印象に残っている。
「感情の濃厚接触」これこそ、舞台なのだろうな。。。
もちろん、映画、ドラマなどの映像作品でも「濃厚接触」は可能なのだろうが、舞台は、生(ライブ)なのであって、感染の可能性が高いのだ!!!
「奇跡の人」について、ありきたりであるが、たいへん感動した。
無論、このストーリーそのものの素晴らしさがあるのはわかりきっているが、ワタシの頭の中では、一冊の書物が一度目の観劇時から頭の中を渦巻いていた。
それは、吉本隆明著「言語にとって美とは何か?」である。
1970年生まれのワタシは、高校時代にこの吉本隆明をはじめ、柄谷行人、蓮實重彦、浅田彰などを読み漁り、学校の勉強はほぼ一切しなかった。
その後、東大文学部に進学でもすればしめたものだったが、そんな奇跡は起ることもなく、新百合ヶ丘の映画専門学校に進学したのだった。
その原因は、ワタシは、そのような哲学者、思想家の著書を読んでいたものの、ほとんどわかっていなかったからである。
彼らの思想は「ニューアカデミズム」と総称され、1980年代流行した。
だが、彼らの本をワタシは、決してファッションで読んでいたわけではない。
では、なぜかと問われると答えはない。
何かを彼らの書物の中に見出したかったのだが、その何かも不明である。
いわば若気の至りである。
ここから、やや難解になるが、舞台「奇跡の人」は、演劇の原初的な要素に満ち溢れていると考える。
ここでワタシが言うところの演劇の原初的な要素とは、
・言語とは何か?
・名称(名詞)の発見
・肉体とことばの関係性=発話
などで、演劇を構成するために通常は、そのまま定義されているものを、この演劇は、そこを問うことからはじまっている。
まあ、それが、この演劇のストーリーでもあるわけで。。。
ワタシは、これらの要素を平易に、一般的な演劇という枠組みの中で、きちんと収められているということに感動した(のだと思う)。
これらの分析は、観劇中はわかるはずもないが、ただ「言語にとって美とは何か?」について、想起したのは、観劇中だったと記憶する。
ということで、この「奇跡の人」を「言語にとって美とは何か?」と絡めて紹介できないかと、数十年ぶりにあらためて読み返したのだが、やはり、難解である。
ワタシには、この書物とこの演劇をうまくミックスして、語れる能力を持ち合わせていない。
ただ、同書から2箇所ほど引用しておきたい。
①「water(ウォーター)の発見」との関連
ここで、「海(うみ)」という言葉の発見は、「奇跡の人」にとっての「water(ウォーター)」の発見と重なることは明らかである。
おそらく、ワタシはこの箇所を観劇中に想起したのだ。
引用部分の最後「じぶんをふくみながらじぶんにたいする音声になる。またそのことによって他にたいする音声になる。反対に、他のためにあることでじぶんにたいする音声になり、それはじぶん自身をはらむといってもよい」は、「奇跡の人」の感動を表現する文章として読んでしまいたくなる。
しかし、問題は、吉本によるこの著作は、言語と言っても「日本語」について論じている点である。
だが、この舞台の中でもヘレンが「水(みず)」と叫ぶのでは、ちょっと違うようにも感じる。
これ以上は、ワタシの能力では言及できない言語学の範疇なのだろうが、音声として、やはり「う(ウ)」ではじまるのが、重要なのかとも思う。
これに日本語であるか、英語であるかなど、言語のちがいは関係ないようにも思うのだ。
②演劇について
この「言語にとって美とは何か?」は、たいへん難しい。
比較的読みやすい吉本隆明の著作はあるが、代表作と言われるものは、難解であり、それなりの教養も必要とする。
だが、吉本は思想家であると同時に詩人でもあった。
本書もその言葉遣い、特に漢字でかけばよいものをわざわざ、ひらがなで書くところなど、詩的に感じられる箇所も数多い。
正直に言えば、ワタシも多くを飛ばし読みしているのを告白しておく。
教養など、ワタシには縁遠く、知識を要求される難解な書物もなんとなくわかったつもりで読むのが、自己流である。
だが、それでも刺さるところは数多い。
「言語にとって美とは何か?」では、後半「演劇について」言及している箇所があった。
上記の引用部分は、演劇についての章の冒頭に近い箇所で、これ以後は、能や浄瑠璃などに話が移り、難解でとても読めたものではなくなる。
だが、ここで、言われているところの「劇とはなにか」は「奇跡の人」の裏テーマであるようにも思われた。
つまり、「奇跡の人」は、「言語としての劇」と「舞台に演ぜられた劇」の合わせ鏡のようなつくりになっているようにも思われるのだ。
それをよく証明するのが、「テーブルマナー」のシーンである。
ここでは、具体的なセリフは一切ない。
だが、なぜか笑いを誘うアクションを含みながら、乱闘するという場面。
なぜ、笑いが生まれるかといえば、これが演劇だからなのだ。
この場面で、ヘレンとサリヴァンは、頭から水をかぶってしまうわけだが、これは、ラストの「water」へ結びつく。
演劇が言語化するといえば、説明になるだろうか?
だが、ワタシはここで演劇論をしたいのではない。
単純に、「奇跡の人」は、極めて演劇的だということを言いたい。
その言語が(言語能力)がワタシに足りない。
「奇跡の人」の語るための言語が足りない…。
「w.w.w.water(ウォーター)…」
ワタシは、「奇跡の人」の2度の観劇で、一度は前から4列目くらいの席で観ることができた。
ちょうど、目の前に井戸ポンプがある位置である。
これまでで、一番前方で観られたので、出演者でもないのに、興奮と緊張が入り混じった。
余計な咳などせぬように、注意をしなければならなかった。
そんな中、一番迫力を感じたのは、サリヴァン先生の口から発せられる唾だった。
ヘレンと格闘しながら、発せられるセリフ…というより、名詞を教えているシーンだったと思うが、その大声のシーンで、ワタシはサリヴァン先生(高畑充希)の口から唾がバシバシ出ているのをはっきりと見た。
「いやあ、演劇って凄いですね」
これは、おそらく4KTVでも見られないようにも思う。
(8KTVは観たことがないので、想像できない)
個人的には、演劇をライブ配信や、TVで放映することはよいことだと思う。
高畑充希が言うように、「生で見なければ良さがわからない」とは思うが、映像で視聴できれば、それはそれで、よいと思う。
しかし、今回の「奇跡の人」のライブ配信でも感じたが、実際の観劇とライブ配信視聴は、まったくの別物ではある。
だが、ライブ配信ならではの演者のアップの画面は、観劇ではなかなか見られないものだ。
一方で、実際の舞台では、役者の大きさ、声、を体感することができる。
それは、座席の位置で多少の差異はあるもの、「LIVE=その場に立ち会う」という意味では、座席の位置は関係ない。
高畑充希の言葉によるところの「感情の濃厚接触」も座席の位置は関係なく、その場を共有すれば得られるものを意味していると思う。
唾に関しては、かなり前の席ではないと見られないのだけれど…。
これを書くために数ヶ月かかってしまった。
(構想3ヶ月執筆半日)
このマガジンでワタシが書きたいことは、まだまだたくさんある。
次回のテーマはまだ未定だが、月に2回は投稿したいと考えている。
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