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私は怖い話や心霊話などは大好きだが、あくまで怖がって楽しんでいるだけにすぎない。幽霊なども見たことがなく、そもそも心霊現象の類は信じていない。
昔は「あなたの知らない世界」とか、「奇跡体験!アンビリバボー」などの番組(特集)があって、心霊話が放映されるたびに楽しんで(怖がって?)観ていたものだ。ところが、一時期から物理学者の大槻義彦教授が、テレビで心霊現象を徹底的に否定するということをやりだした。
大槻教授の言っていることは至極真っ当で、霊能者にしても、存在しない霊の存在など証明できるわけもなく、たいていは一方的に大槻教授が論争に勝つという展開だった。
まあ、そういう展開になるだろうなとは思っていたものの、その反面「大槻教授も大人げないことをするなあ」と苦々しい気持ちで見ていた。心霊話の類なんて「存在しない霊魂というものを、いればすごいなあ」という前提でするものであって、あんな話を真面目に信じる大人がいるとは信じられなかった。つまり心霊話の類とは「大人同士のジューク」の類であって、お互いに怖い話を作って、怖がらせ合う高尚(?)な楽しみ――趣味がいいか悪いかは別にして――だと思っていたのだ。
だからこそ大槻教授の主張は当たり前すぎて、まったく面白みに欠け、怖い話を楽しもうとしている人に冷や水を浴びせるような行為だと思っていた。つまり「ジョークを言い合っているときにマジレスするなよ」的な感情を抱いていたのだ。
大槻教授の活躍のお陰かどうかは知らないが(コンプライアンスの問題ということもあったのだろうけど)、以来テレビで心霊話の番組が減ったように思う。時代の趨勢かなと納得する気持ちもあったが、「大槻教授がむきになって否定するから」と彼に対して若干の恨めしい気持ちを抱いたのも確かだ。
ところが最近になって、大槻教授の主張はとても誠実なものだったのだ、と思うようになってきた。心霊話の類を本当にあった話のようにテレビでやると、それを信じる人間が一定数いるということがわかったからだ。
そういう話をテレビでやることによって、信じる人が増える。その結果、インチキ占い師やカルト宗教に騙される人間が増える。それは放送側のモラル的にいかがなものか、というわけだ。たしかに言われてみれば、国民の財産である公共の電波を使ってインチキ話を、さも事実のように話すのは、大いに問題があると思う。
そういう心霊話の類が社会全般として下火になるのは健全なものだと思う反面、怖い話が大好きな私は一抹の寂しさを覚えてしまうわけである。
さて、かくいう私でも、小学生のとき一度だけ不思議な体験をしたことがある。
あれは小学校四年生のときだった。
当時よく遊んでいた同級生の一人に久我浩一(くがこういち)君という友人がいた。出会いが特徴的だったので、久我君と初めて会ったときのことは、今でもよく覚えている。
当時私は家から一番近い公園でよく遊んでいた。その公園は学校から離れてはいるが、大通りをはさんだすぐ向こう側にあり、自分の家からはとても近かったので、そこで遊ぶことが日常になっていた。
その公園で初めて出会ったのが久我君だった。聞けば自分とは同じ四年生とのこと。
久我君は初めて会ったときに自己紹介してくれた。自分は元々は中臣鎌足が天智天皇より賜った名字の藤原氏の末裔だ、と。
「てんちてんのう」がどんなすごい人なのかはわからなかったが、「天皇」というくらいだから、その部下の「なかとみのかまたり」という人が、とてつもなく位の高い人なのだろうということは、無知な私にもわかった。そしてそんな素晴らしい家柄の久我君の祖先はきっと由緒正しいんだろうと思ったのと同時に、なんとなく引け目のようなものを感じた。
そんなマウントを取るような出会いでもあったにかかわらず、久我君はとても謙虚で賢い子だった。私の知らないような難しいことをたくさん知っていたし、学校の成績もずば抜けていた。一度テストの答案を見せてもらったことがあるが、すべて100点だったので驚いたことがある。それになにより彼は人の嫌がることは絶対にしなかった。そんな彼の性格さえも、高貴な家の出だからなのではないかと思ったほどだ。
久我君とはとても馬が合った。公園のそばに久我君の家があったので、授業が終わると、私たちはその公園に行って遊んでいた。なにをして遊んでいたかは覚えていないが、とても楽しかったことは覚えている。
ある日のことである。いつものように放課後久我君と公園で遊んでいるときに、ダークグレーのスーツを着た男が私たちに近づいてきた。
最初に気づいた久我君が「あっ」と軽く声を漏らした。年のころは四十代前半だろうか。銀縁の眼鏡をかけていて少し神経質そうな感じがした。その男はなぜか久我君の腕を取ると、さも当然のように「行くぞ」と言った。
「いやだ!」
久我君は手を振り払おうとしたが、男の力が強くて振りほどけない。男は久我君の手をつかみ、ずんずんと向こうの方に歩いていった。
そこで私は初めてなにが起こっているのかが理解できた。
久我君は誘拐されようとしているのだ。
私は男にしがみついて、久我君を守ろうとしたが、男に振り払われて、そのはずみで押し倒されてしまった。私が起き上がっているあいだにも、久我君はどんどん向こうに引っ張られていく。久我君も抵抗していたが大人の力にはとうてい抗えないようだった。
あの男に抵抗しても力では勝てない。そう判断した私は公園の近くにあった久我君の家に走った。久我君の家について、激しくドアをノックした。
ほどなくしてドアが開き、久我君のお母さんが姿を現した。
「浩一君が誘拐されそうなんです」
私は早口でまくし立てた。
しかしお母さんは私を怪訝そうな顔で見つめた。
「誘拐って、だれが?」
「久我浩一君です。お母さんの子供です」
久我君のお母さんは目をしばたたき、それから吐息をついて無表情に言った。
「うちには男の子なんていないわよ」
最初私はお母さんが冗談を言っていると思った。こんな緊急事態につまらない冗談を言うなんて、久我君のお母さんはなにを考えているのだろう。
久我君のことが心配でもあり、私は半ば喧嘩腰になって、お母さんの袖口をつかんだ。
「なに言ってんの。このままじゃ浩一君が誘拐されちゃう」
お母さんは戸惑った表情をしていたが、やがて私を憐れむような目で見始めた。
「あなた大丈夫? なにか変な夢でも見たんじゃないの?」
あまりに木で鼻をくくったような対応に、私はこのままじゃ埒が明かないと思った。身を翻して、久我君の後を追ったが、すでに久我君と男の姿はなくなっていた。
途方に暮れた私は、はっとして無我夢中で転がるように自宅に走った。そして家に帰るなり、久我君が見知らぬ男に誘拐されたと母に説明した。
ところが母の答えは「久我君ってだれ?」だった。
私が仲の良かった藤原家の子孫の久我君だと説明しても、母はいぶかしげな顔をするばかりだった。
「4年1組にいるでしょ。久我君って」
私がそう言うと、母は戸棚から私のクラスの学級名簿を取り出してきた。そして私に私のクラスの部分を開いて見せた。
「ほら、久我なんて子はいないでしょ」
たしかに学級名簿の欄には久我君の名前はなかった。それからも私は目を皿のようにして、クラスメイトの名前を一人一人確認したが、どこにも「久我浩一」の名前はなかった。
「あなた、寝ぼけて変な夢でも見たんじゃないの?」
狐につままれたような気分になった。なぜ久我君のお母さんや母は久我君を知らないのか?
たしかに久我君とはいつも公園で遊んでいたので、母は知らないかも知らない。しかし久我君のお母さんが久我君を知らないなど、ありえないことではないか。久我君の家には何度もお邪魔しているし、お母さんにお菓子やジュースをふるまってもらったことも一度や二度ではない。
当時は誘拐事件が多く発生し、大人たちもなにかあると「人さらいに遭うぞ」などと言って子供たちを怖がらせたものだ。たとえ他人の子だとしても、自分の家の近所で誘拐事件が起こったのだ。久我君のお母さんの冷淡さは異常ではないか。
それから母親に何度も訴えかけたが、全く相手にもされず、帰ってきた父にも説明したが、「わかった、明日学校に連絡する」と言うだけだった。もちろん父が学校に連絡などしないことは苦笑の表情から見ても明白だった。
こうしているうちにも、久我君は男に誘拐され、ひどい目に遭わされているかもしれないのだ。私は気が気ではなかったが、さりとてなにを言っても相手にされないような状況ではどうしようもない。
その日はベッドに入っても夜もろくろく眠れなかった。
翌日私が登校すると、仲が良かった山田君が教室にいた。さっそく私は昨日久我君が見知らぬ男に誘拐されたことを話した。
ところが山田君の返事も「久我って、だれ?」だった。
それから私は出会うクラスメイトに片っ端から久我君のことを聞いて回ったが、だれもが「それ、だれ?」だった。
挙句の果てに先生にまで訴えかけたのだが、「ふざけてないで席に着きなさい」と歯牙にもかけられなかった。
納得しないまま席に着かされた私はそれからも久我君のことを先生に訴えかけたが、「まだ寝ぼけているやつ」としてクラスメイトの失笑を買うだけだった。
明らかに不自然だ。
なぜ久我君のことを知っているのが私だけなのか?
そもそも、昨日久我君のお母さんは、久我君が誘拐されたにもかかわらず、なぜ平然としていたのか?
彼女は本当に久我君のことを忘れてしまっているのか。もう頭がおかしくなりそうだった。
その日授業中にもかかわらず、ずっと思案を巡らせていた私は、ある考えに思い至った。
久我君は存在自体を消されたのだ。
昨日現れた男は特殊な力を持った異次元の人間か神に近い存在で、なんらかの理由があって久我君を誘拐して、自分の世界に連れ去る。そしてそのときに、久我君とかかわったすべての人間の記憶から久我君の存在を消し去ってしまう。
だから久我君のお母さんも母もクラスメイト達も先生も久我君の存在を覚えていないのだ。
それではなぜ私だけが久我君の存在を覚えているのか?
これに関しては答えが見つからなかったが、久我君誘拐の現場にいた私は、なんらかの作用があって男の不思議な力――記憶を消し去る力――が及ばなかったのではないだろうかと。
当時の私はそれが一番妥当性のある推論ではないかと思った。そして、そもそも久我君は私のいる現実世界の住人ではなく、なにかの手違いでこの世界に来てしまった異次元の住人ではないかと考えるようになった。
当時の世間の風潮として「この世の中には科学で証明できないことがたくさんある。だから霊魂も存在する」という考えは一定数存在していた。だから私も久我君の一件は「現代科学で証明できない不思議なこと」として納得したのだ。
以来、私はこの世の中には現代科学では説明できない「なにか」が存在している、と強く思うようになった。久我君はこの世ではない違う次元の住人であり、その次元の住人は人知の及ばない力を持っている。現在だとパラレルワールドと思ったのだろうが、当時の私はそんな単語など知っているわけもなく、ただなんとなく久我君は「四次元の住人」ではなかったのだろうかと思うようになっていった。
そうして月日が経ち、次第に私は久我君のことを忘れていった。そして大人になり、久我君というのは、もしかしたら私のイマジナリーフレンド(幼児や子どもが空想する架空の遊び相手、または心理学や精神医学における現象名)だったのではないかと思い始めていった。
当時の私は一人で遊ぶのが寂しくて、想像で理想の友達を作り、友達と一緒に遊んだつもりになっていたのだと。たしかに当時は父も母も忙しくて、あまり私の相手をしてくれなかった。その寂しさを補うために妄想が生まれたのではないかと。そう考えてみると、久我君とは私が勝手に作り出した「想像上の友達」ではないかという考えが一番正しいように思えてきたわけである。
さすがに久我君が四次元やパラレルワールドの住人だという考えは荒唐無稽すぎる。それよりも「イマジナリーフレンド」というのが一番あり得るだろうとさらに歳を重ねるにつれて思うようになっていった。
ところが私の推論はまったく違っていたということを二十年後に知るのである。
久我君のことをすっかり忘れ、二十年が経ったある日のこと。
都内で働いていた私が、東京駅で山手線を待っていたときのことだ。
隣の車両の乗り場に立っている男に目がとまった。
年齢は三十代前半といったくらいだろうか。男はさっぱりとした短髪に、知的そうに見えるメタルフレームの眼鏡をかけていた。体にぴったりと合った高級そうなスーツには上品な光沢があり、落ち着いた小紋柄のネクタイと相まって、いかにもできる感じのサラリーマンという感じだった。
この男を見るにつけ、どこか見覚えがあるような、なにか懐かしいような不思議な感覚に包まれた。この感覚は遠い昔にどこかで感じたことがあるものだと感じた。いったいどこで感じたものか……。
しばらく記憶を辿っていた私ははっとした。
あの男は二十年前、久我君を誘拐した男ではないか。
いや、ちょっと待て。
あれは二十年も前の出来事だ。あのときであの誘拐犯はすでに四十代以上だったではないか。もう六十歳をゆうに超えてもいい年齢だ。それなのに目の前の男はまだ若々しく、どう見ても六十歳には見えない。
私の記憶違いと思ったのだが、隣の男を見れば見るほど、あの時の誘拐犯だとしか思えなくなっていく。
私は意を決して、その男に声をかけることにした。
「あなた、ずっと前に僕の友達の久我君を誘拐しましたよね?」
突然だったからか、男はぎょっとした表情で私を見つめた。私は男に顔を近づけ、重ねて言った。
「二十年前、○○小学校の近くの公園で久我浩一君を誘拐しましたよね?」
「いや……」
男は口ごもり、後ずさりをし始めた。間違いない。この男はなにかを知っている。
「そもそも、あんた、なんで年を取ってないんだ?」
男はこわばった表情で私を見つめていた。私はさらに男に詰め寄った。
「なんで浩一君を……」
私が言い終わらないうちに、男は身を翻し、駅の階段の方向に走り出した。
「ちょっと……」
その男は唖然としている私を尻目に、ものすごい勢いで階段を下っていった。
我に返って男を追いかけたが、ホームの階段を下りたときには、男は丸の内北口の改札を抜け、人ごみの中に紛れてしまっていた。
あまりにも突然の出来事に、私は茫然と改札の中で立ちすくんでいた。
家に帰った私は激しく後悔した。
なぜあのとき、すぐにあの男を追わなかったのか。あの男を追って捕まえてさえいれば、私の二十年来の謎が解けたかもしれなかったのに。あまりに突然のことだったので、驚愕の気持ちが大きく、すぐに行動できなかった。
あの男は私を見て逃げ出した。なにもやましいところがなければ逃げるわけがないはず。あの男は明らかに二十年前の久我君誘拐事件に関係しているのだ。
私があの男を逃しさえしなければ……。
考えれば考えるほど、後悔の念に苛まれた。
しかし、後悔の念と共に疑問も湧き上がってきた。
なぜあの男は年を取らないのか?
私が子供のころに出会ったとき、すでに立派な「おじさん」だった彼は年齢からみても「おじいさん」の歳になっているはず。それなのに東京駅のホームにいた彼は三十代の私と同じくらいの歳にしか見えなかった。人によっては多少若く見えるということもあるかもしれないが、男の肌の質感や髪の毛の具合から見ても六十代には到底見えなかった。
彼は歳を取らないのか。だとしたらなぜ?
ありえない話だが、やはり彼は異次元の世界の住人なのかという、突拍子もない考えが頭に浮かぶ。
ずっと前に自身で否定した私の推論。すなわち、久我君がパラレルワールドの住人に連れ去られたという考えは、二十年の時を経て、再び私の心の中でにわかに鎌首をもたげてきたのだ。少なくとも久我君は私のイマジナリーフレンドなどではない。
以来私は電車に乗るときに、周りにあの男がいないか、必ず確認するようになった。
それから半年も経ったころだろうか。
仕事で新橋駅の烏森口に立ち寄ったとき、改札前に立っている人物を見て、私の胸がどきんと跳ねあがった。
その人物はあれほど探していたあのときの久我君誘拐犯だったのだ。
私は男に気づかれないように後ろから近づき、彼の左手の手首をぐっとつかんだ。
「やっと見つけたぞ」
男は振り返ると、驚いたように両目を見開いて私を見た。すぐさま腕を振り払って逃げようとしたが、私は手首を強くつかんで放さなかった。逃げられないと悟ったのだろう。静かにかぶりを振ると、男はうつむいて押し黙った。
「あんたはいったい何者なんだ?」
私が大きな声でそう訊ねると、近くにいたサラリーマン風の男が驚いてこちらを振り向いた。
いまにして考えれば、人に「何者なのか?」など普通は聞きはしないだろう。しかし、そのときの私は、男をやっと見つけたという嬉しさと、なんとか謎を解明したいという好奇心が勝っていて、周りを気遣う余裕はなかった。私は人通りの邪魔にならないところに男を連れて行った。
「あんたは、二十年前に、久我君を、誘拐したのか?」
私は一句一句確認するように、しかし小声でゆっくりと重ねて訊ねた。
しばらくのあいだ、男はうつむいてなにかを考えていたが、やがて諦めたように大きく息を吐いた。
「誘拐犯なんだな?」
男は首を横に振った。
「じゃあ、久我君を誘拐したのはだれなんだ?」
男は頭を上げ、私の顔を見つめ、うすく笑った。
「僕は久我浩一だよ」
「は?」
私は彼がなにを言ったのか、一瞬理解できなかった。
「だから僕は、君と昔公園で遊んでいた久我浩一なんだよ」
初めて私は男の顔をまじまじと見つめた。たしかに知的そうに見えるその表情は、私の記憶の奥底にある久我君の面影が残っている。
「君が久我君……だったのか」
久我君が頷いた。
「久我君、無事だったんだね」
久我君は見知らぬ男に誘拐された。久我君が妄想の人物ではないならば、少なくともひどい目に遭わされているだろうと思っていたので、なんだか安堵した。
「じゃあ、君を誘拐した男は?」
「誘拐じゃないんだ。あれは僕の父なんだ」
「え?」
「あのとき僕は父の家に連れていかれたんだ」
久我君はあのときのことを説明してくれた。
久我君の両親は別居していて離婚が正式に決まったそうだ。そして父親のほうが久我君の親権を獲得した。それでお母さんと暮らしていた久我君は父親に連れていかれた。久我君はいままでと同じように母親と一緒に住みたかったので激しく抵抗した、というわけだ。
そう言われてみれば、久我君を誘拐した男――父親――はいまの久我君にそっくりだ。だから久我君に再会したとき、久我君の面影といまの久我君が重なってすぐに思い出せたのではないだろうか。
「じゃあ、お母さんはなぜ君がいないなんて言ったんだろう?」
「それはたぶん母親の僕に対する踏ん切りだったんだろう。父親のところに行ってしまう僕のことをいつまでも引きずって生きていけないと思って、僕はいない子として扱ったんじゃないのかなあ。いまでは普通に話せるようになったけど、子供のころは久しぶりに母に会ってもなんだか冷たかったからね。お父さんを本当の親として暮らしていきなさいという母なりのメッセージじゃないのかなあ」
たしかにあの時のお母さんの態度はどこか不自然だったが、そういうことだったのか。
「それにしても先日再会したときに、なんで君は逃げたんだ?」
私がなじるように訊ねると、久我君は申し訳なさそうな顔をした。
「実はね、あれは嘘だったんだよ」
「嘘ってなにが?」
「僕が藤原氏の末裔だって話。君が事あるごとに『さすが貴族の子孫は違うね』なんて褒めてくれただろ。最初はつい口から出まかせを言ったんだけど、いつ本当のことを告白しようって思ってたんだ。そんな矢先にあんなことになっちゃってさ」
いまにして思えば、久我君が高貴な家柄の生まれなのか、そうでないかなど、どうでもいいことではあるが、久我君にとってはかすかな負担になっていたのかもしれない。
「あとね、君が大切にしてた仮面ライダーカードって覚えてる?」
仮面ライダーカードとは、カルビーが発売していたスナック菓子に附属されていたカードのことだ。あまりに人気があり過ぎて、スナックを買った少年たちが、カードだけを取ってスナックを捨ててしまうということが全国で起こり、社会問題にもなった。
「うん、サイクロン号に乗る仮面ライダーでしょ。たしか49番の。なぜかあのカード気に入ってたんだよなあ」
「そう、そのカードなんだけど、実は借りるつもりで君の机の引き出しから盗んでたんだ。だから君に対してずっと申し訳ないって思ってて、なんだかばつが悪くて……」
「それで逃げ出したってわけ?」
久我君は黙って頷いた。
私からすれば、そのことも取るに足らぬようなことだが、久我君にしてみれば、私を見ると、盗みを働いた自分のことを思い出し、自己嫌悪に陥るのではないだろうか。
しかし疑問は他にもある。
「でも、俺の小学校のクラスメイトも担任もなんで君のことを知らなかったんだろう?」
私が独り言を言うように呟くと、久我君は意外そうに身を引いた。
「それはそうだよ。だって僕らは違う小学校じゃないか」
「あっ」
それで初めて思い出した。
私の家から近い公園で遊んでいたので久我君のことは同じ学校で同じクラスなのだと完全に勘違いしていた。私と久我君は違う学校だったのだ。
だからだれも久我君のことを知らなかったのか。
すべての謎は氷解した。
私は学区が違う小学校の友達と遊んでいた。そしてその友達が父親に引き取られる現場に居合わせた。そのことを誘拐と勘違いしてしまった。そのうえクラスメイトも久我君を知らないと聞き、必要以上にオカルト的な発想をしてしまったのである。
幽霊の正体見たり枯れ尾花とは、まさにこのことだろう。
それから久我君と少し話をした。彼はだれもが知っている有名大学を卒業して、いまは都内の一部上場企業で働いているとのことだった。彼と連絡先を交換し、再会を約束したうえで別れた。
久我君と別れたあと、私はあることに気づいた。
久我君は私の家の引き出しからカードを盗んだと言っていたが、久我君は私の家には来たことがないはずだ。だからこそ母も久我君のことを知らなかったわけだ。一度も私の家に来たことがない久我君が、なぜ私の引き出しからカードを盗むことができるのか?
一週間後、帰省した私は実家の部屋の机の引き出しを調べてみた。
やはり久我君が盗んだと言っていた「仮面ライダーカード49番」がある。あれだけ大切にしていたカードだから、もし盗まれていたとしたら、久我君がいなくなったあとでも、カードがなくなったことに気づいたはずなのだ。それなのに私にはカードがなくなった記憶はまったくなかったし、実際になくなってもいない。
早速久我君に電話をしてみたが「この電話番号は現在使われていません……」のアナウンスが流れてつながらなかった。電話番号交換したときに、実際に電話をかけて確認しておけばよかったと臍を噛んだ。
久我君の名前を頭の中で巡らせていた私は、奇妙なことに気づいた。
久我君の名前「久我浩一(くがこういち)」であるが、文字を並べ替えてみると「こうくちがい」、つまり「校区違い」になる。久我君の名前のアナグラムが「校区違い」になるなんて、奇妙な偶然にもほどがある。
そこまで考えて、私の背筋にひやりとした感覚が襲った。これは、はたして偶然だろうか。
私は地図を開き、久我君の住んでいた家を指さし、母に聞いてみた。
「この場所だけど、○○小学校の校区じゃないよね?」
「なに言ってるの。ここは○○小学校の校区じゃない。だってここよりも遠い、ほら……」
と言って、久我君よりも○○小学校から遠い場所を指さした。
「ここに住んでた山田君は○○小学校で6年生のとき同じクラスだったでしょ」
たしかにその通りだった。
すると山田君より学校に近い家に住んでいた久我君は、私と同じ校区に住んでいたことになる。だとしたら同じ○○小学校のはずで、クラスメイトか先生のだれかは久我君のことを知っているはずだ。それなのにだれも久我君のことを知らなかった。
そこまで考えてみると、二十年前の久我君のお母さんの反応も明らかに不自然だ。そもそも息子が別れた夫の元に連れていかれるとして、息子はいない、などと言うのだろうか。少なくとも私には、息子は父親と暮らすようになったと説明するのではないだろうか。だとしたら、あの女性は久我君の本当の母親ではないのではないか。
いったい久我君は何者なのだろうか?
久我君の家のあったところを訪ねてみたが、家も公園のあった場所も、大きな市営団地が建てられていて、昔の景色の面影は微塵もなかった。
あれからさらに約二十年の年月が流れたが、久我君とは一度も再会していない。
そして、子供の時に遊んだ久我君と、あの時に再会した彼が同一人物なのかも、結局わからずじまいだった。
あの男が久我君だとして、彼がなぜ嘘をついたのかも、わからないままである。
(了)
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