【パロディ】夢十夜(第十八夜)
第十八夜
将棋所の敷居を跨いだら、紺の背広を着て将棋を指していた席主が、いらっしゃいと云った。
真中に立って見廻すと、四角な部屋である。窓が二方に開いて、残る一方には左馬が、もう一方には有段者の名前が懸っている。右の隅に席主が七冠を取ったときの写真があった。将棋盤の数を勘定したら六つあった。
自分はその一つの将棋盤へ来て腰をおろした。すると御尻がぶくりと云った。よほど坐り心地が好くできた椅子である。駒は本黄楊の立派な彫り駒である。将棋盤も黒光りして年季が入っている。それから帳場格子が斜に見えた。格子の中には人がいなかった。少し腰を浮かすと他の人間の盤面がよく見えた。
庄太郎が将棋を指している。庄太郎はいつの間にかエルモ囲いという珍妙な名前の囲いから急戦を仕掛けていた。エルモ囲いもいつの間に覚えたものやら。ちょっと解らない。庄太郎は得意のようであった。よく戦局を判断しようと思ううちに庄太郎が投了した。
隣の小太りの男が棒銀をやっていた。背広を着ていてネクタイがやたらと長い。指す時に力任せにびしっと駒を叩きつける。脇に食べかけの鰻重があり、時折それをかっ食らう。なんでもこの男の戦法は棒銀一本やりだそうだ。負けた時も、棒銀が弱いんじゃない、自分が弱いんです、と説明する。いつも同じ戦法だから、見ていて気がかりでたまらない。生涯棒銀を指しているように思う。
蓮向かいでは紋付き羽織に袴姿の男が指している。戦型は向かい飛車のようだ。向かい飛車から金をずんずんと繰り出して相手の守りを潰した。相手が投了すると、あんた、そこから見て浪速区と北区の火事がいっぺんに見えまへんやろ。ワテは五重の塔の上に立っとるから大阪中の火事がみな見える。その違いや、と云った。ちなみにここは東京だ。相手は困ったような顔をしていた。
すると紺の背広の席主が、自分の前へ来て、駒を初形に並べ自身の飛車と角行を駒袋にしまい込んだ。眼鏡をかけていて眼光は鋭い。後頭部の髪が無造作に立っているが寝癖だろう。自分は頭を捩って、どうだろう平手でできないだろうかと尋ねた。紺の男は、何にも云わずに、初手を指した。
「さあ、二枚落ちもいいが、どうだろう、平手ではさせないだろうか」と自分は紺の男に聞いた。紺の男はやはり何も答えずに、盤面を眺めていた。
しばらくの間返事を待っていたが、席主が真面目な顔をして黙っているので恐ろしくなって、やがて手を指した。すると紺の男が、こう云った。
「旦那は向こうの若い男の将棋を御覧なすったか」
自分は見ないと云った。紺の男はそれぎりで、しきりと盤面を見つめていた。すると突然大きな声で危険と云ったものがある。はっと向こうを見ると、髭の男が、錯覚いけない、よく見るよろし、と手を打っていた。
やがて、紺の男は自分の悪手を咎めて優勢になった。二枚落ちで負けたら恥だから、必死で考えた。あんたの銀が泣いとる、と云う声がすぐ、そこでする。隣の小太りの男の将棋に対して紋付き羽織が云っている。あの棒銀がどうなったのか、ちょっと様子が見たい。けれども席主の眼光が鋭く、蛇に睨まれているようで怖くて見られない。
自分はあるたけの視力で部屋の角を覗き込むようにして見た。すると帳場格子のうちに、いつの間にか一人の男が坐っている。男はパソコンの前に座って画面に向かって喋っている。皆さんこんにちは、今回は鬼殺し戦法をやってみました、と云っていた。なんでも将棋ウォーズなるソフトを使って対局し、その様子を動画サイトにアップするそうだ。
自分は茫然としてこの男の顔とパソコンを見つめていた。すると紺の男が大きな声で「詰みましたね」と云った。ちょうどうまい折だから、椅子から立ち上がるや否や、帳場格子の方を立ち上がって見た。けれども格子のうちには男もパソコンも何にも見えなかった。
代を払って部屋を見渡すと、とりわけ見物客が多い盤があった。近づくと、若い男が壮年の男と指していた。おそらくこの若い男が席主の云った男だろう。対局相手は将棋の神だそうだ。もし将棋の神様がいるのなら、僕と一局お手合わせお願いしたい、と若い男が云ったから、わざわざ神様が相手をしているそうだ。将棋の神様も存外暇らしい。神様が指すたびに見物客がどよめく。若い男は眼前の将棋盤を見つめたまま、じっとしている。騒がしい見物客の活動にはほとんど心を留めていない。自分はしばらく立ってこの若い男を眺めていた。けれども自分が眺めている間、若い男はちっとも動かなかった。